kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



”日本頑張れ”・”日本凄い”もいいけど、それだけじゃないオリンピックの楽しみ方

 週末は、ピョンチャンオリンピックをTVでダラダラ見ている。

 小平奈緒さん金メダルおめでとう、よかったね。羽生結弦君、凄かった、カッコよかった、勝つと言って勝ち切るなんてなかなかできないよね。宇野昌磨君、すごいよ。銀メダルだよ、銀メダル、凄いことだ。ジャンプの高梨沙羅選手、良かったね、苦しかったよね。

 日本人選手の活躍は嬉しいし、ワクワクする。テレビでも”日本頑張れ”・”日本凄い”を連呼している。それはそれでアリだと思うんだけど、やっぱりつまらないんだよね。”日本頑張れ”・”日本凄い”って、前回のソチオリンピックでも言ってたよね、その前のバンクーバーでも同じだ。こういういつでも使える報道ってつまらないんだ。

 ”日本頑張れ”・”日本凄い”って言葉は、日本人選手を”僕たち”という意味の記号にしてしまう。ほかの国の選手は”敵”・”ライバル”という記号だ。”僕たち”という記号になった日本人選手は、原大智伊藤有希も坂本花織の区別もなく”僕たち”という意味の記号になる。

 それって、もったいない。

 

 安藤美姫さんによるフィギュアスケートの解説は、一人ひとりの個性を伝えている。こういう解説があると、選手は記号化されず個々のアスリートとして識別される。

togetter.com

 

 世界には凄い選手がたくさんいる。そのスゴ技を見れるのが、オリンピックだ。選手を記号化して外国人選手のスゴ技を見逃すのはもったいない。見逃すどころか認識もしてないかもしれない。

 例えば、サッカーワールドカップだったら、ネイマール選手の凄いところをTVで丁寧に解説するよね。そういうのをオリンピックでもやって欲しい。

 例えば、’ロシアから出場できなかったけど)OARのメドベデワって、フィギュアスケートの選手として凄いよね。可愛いし。おまけにセーラームーン好きだし。そういうのを紹介して欲しいんだ。

 

www.youtube.com

「お金を払わない人はファンじゃない」と「ファンに感謝の気持ちを伝えたい」の間にあるもの

 ピョンチャンオリンピック高梨沙羅選手が銅メダルを取った。頑張ったね、すごいね。そして高梨沙羅選手の喜びのインタビューもいくつか目にした。その中で、応援してくれるファンの人のためにも、次はもっと頑張りたいと言っている。

「次の北京で今度こそ金メダルを取って、応援してくれる人たちに感謝の気持ちを伝えたい」と決意を述べた。

【平昌五輪】高梨「楽しめたのが収穫」 モーグル原は「興奮して一睡も…」一夜明け会見 - 産経ニュース

 

 このコメントを聞きながら、以前にネットで炎上した「お金を使わない人はファンじゃない」を思い出した。この記事に対して多くの意見がネット溢れ炎上した件だ。

lineblog.me

 

 この人のことを殆ど知らないのだが、重い白ことを言う人だと思っていたし、それに対するネットの意見も的外れに思えていた。どうしてしっくりこないのか分からなかった。それがオリンピックを見ながら分かった気がするので、言語化する。

 

ファンってなんだ?

 ”ファン”ってなんだ? 意外に答えづらい質問だ。

 オリンピックでメダルを取った選手に世間は注目する。これはファンだろうか?世間の一部はファンだと名乗るだろう。”にわかファン”である。

 また、不倫などなにかやらかした芸能人を追う芸能レポータを考えよう。レポータは、「心配しているファンのために何か一言を!」とマイクを向ける。このときの”ファン”とはあなたの不倫に興味のある人という意味だ。

 

 こうして考えると、誰かを純粋に応援するホワイトなファンと、注目人物に関心を向ける野次馬なブラックファンの二通りあることが分かる。

 

お金を払う人はファンか?

 ”ファン”という言葉の定義が難しいので、なるべくこの言葉を使わないことにする。

 「お金を払わない人はファンじゃない」とするなら、お金を払う人は何だ?それは”お客様””である。”ファン”という曖昧ワードの代わりに”お客様”を使うと、はあちゅうさんの主張は、かなり明確だ。お客様とそうでない人は彼女にとって別だと言っている。働いている者にとって、お客様とそうでないもの、カスタマとノンカスタマは別だという主張は極めて自然だ。

 世の中には2種類の人間がいる。お客様かそうでないものかだ。この単純な彼女の割り切りに清々しさすら感じる。しかし、これはホワイトファンすらも真っ二つにぶった切る乱暴な分割だ。この乱暴さが炎上を招いたように思う。

 

当たり前の主張をなぜしたのか?

 当たり前のことをわざわざ言う必要はない。それなのに何故言ったのか?

 ブラックなファンってめんどくさいんだろう、きっと。

 そもそも、好きという感情は、ファンと対象人物との一体化を招きやすい。一体化したファン心理において、少しのズレも許容されないものに映るだろう。さらに、ファンだから、つまり応援しているから、相手が自分を特別視して欲しいという甘えもありそうだ。そして、離れていくファンの一部は、「好きだったのに」、「昔は良かったのに」、「もう終わり」など捨て台詞を残していく。

news.livedoor.com

誕生日のフライトを記念すべきものにするため、元々「大好きだった」というANAを選んだという。投稿では「ANAの国際線ファーストクラスで誕生日とか最高!って予約を入れた時からワクワクしてました」とも書いていた。

(中略)

「プレゼントが欲しいとか全然思いません。(略)一言でいいんです。その一言でどれだけ素敵な記念に残るバースデイフライトになることでしょう!!!期待してた俺がバカでしたね。。。」

めんどくさいでしょう?こういうの。わざわざファンなのにって前置きをしてけなしてくるんだ。 

 

 ブラックファンによるこういっためんどくささが、ネットを通じて直撃してくるのは厳しいだろう。そのストレスで、言わなくてもいい主張をしたのだと推測している。

 

ファン不要のビジネスモデル

 芸能人は、それがホワイトであれブラックであれファンを大事にする。ファンがCDを買わなくても、コンサートに来なくても、彼らはカスタマーズカスタマーであるからだ。芸能人のお客様はCMなどを打つ企業だ。ファンは、企業のお客様だから、大切にすることに利がある。

 例えば、お寺の和尚さんは、檀家さんからのお布施で稼ぎを得ているので、キリスト教徒を大事にする必要はない。だから、キリスト教徒の誰かが和尚さんのファンなんですと言ってきても、面倒だと切って捨てても害はない。

 収入=ファンの数×支払い割合×平均支払額 である。KPIで考えれば、ファンの数を追わず、平均支払額を追う戦略があってもいい。いわゆるニッチ戦略だ。ネットによりリーチできる人数は莫大だから、ニッチ戦略でもビジネスモデルとして成り立つ可能性があろう。そして、はあちゅうさんがこれを採用している可能性もある。

 

まとめ

 オリンピックで高梨沙羅選手がファンに感謝するコメントを見て、「お金を払わない人はファンじゃない」というはあちゅうさんの主張を思い出した。

 カスタマとノンカスタマは違うのだというシンプルで自然な主張は、ホワイトファンをもぶった切り、炎上した。ホワイトファンをぶった切らざるを無いほど、ブラックファンは面倒なのだろう。

 ブラックファンに我慢しないためには、ファン不要のビジネスモデルをはあちゅうさんが目指しているのかなとも想像が広がる。

 

 

 

助けてください、「服育」が分かりません

  「服育」とは何でしょう?  

  アルマーニの制服(標準服)の是非で、公立の泰明小学校が「服育」のために必要と説明した。しかし、この「服育」が何を言っているのか分からない。モヤモヤします。

www.wwdjapan.com

 

  そこで「服育」とは何かを調べてみました。

服育(ふくいく)とは、主に衣服に関連する事項を通して、TPO・マナーなどの社会性、環境問題、健康・安全、国際性・文化等に対する理解を深めさせ、子どもの生きる力を育てようという取り組み。2004年に大阪の繊維専門商社チクマが提唱し、日本の教育関係者の一部に広がっている

 (https://ja.m.wikipedia.org/wiki/服育 より、ただし太字は私。)

 

ここで、

  • 繊維会社が提唱した
  • 教育関係者の一部に広がっている

という点が大切に思えます。

 

教育の場で何をするかというと

学校で取り組む服育

子ども達にとって初めての社会である学校という場は、服育を学ぶ上でも重要な場です。その日の授業内容や気候・気温に相応しい衣服について考えたりその衣服について友人とディスカッションする等々、仲間と共に過ごす学校という場だからこそ深める事のできる服育があります。特に皆で同じ衣服を着用する制服のある場合は、普段のカジュアル服とは違うフォーマルスタイルの衣服の役割や相応しい着こなしについて学ぶこともできます。

 

https://www.fukuiku.net/fukuiku.html)

つまり以下の二点を学ぶようです。

  • その日の授業内容や気候・気温に相応しい衣服について考えたりその衣服について友人とディスカッションする
  • 特に皆で同じ衣服を着用する制服のある場合は、普段のカジュアル服とは違うフォーマルスタイルの衣服の役割や相応しい着こなしについて学ぶ

 

前者について、「その日の授業内容に相応しい服装」って何でしょう? 国語だから算数だからと科目で服を変えることかな?それとも昨日の国語は読解だったけど、今日の国語は習字(書道)だから汚してもいい服を着ていくとかそんな話なのかな?

 

後者については、その学校に制服があろうが無かろうが、制服(フォーマルスタイル)の役割について考えることはできそうだけど。制服を着ていて生活するうちにフォーマルスタイルの役割に出会う瞬間があるということなのかな?

 

まとめ

  「服育」とは何か?分かりません。

   アルマーニ問題はおいといて、本来「服育」とは何かについて見識のある方、教えて頂けませんか?狙いと手法と事例があると分かりやすいです。

 

 

 

スマートフォンがつまらなくなっていく、PCの後を追っていく

 スマートフォンの終わりが始まった。

 出荷台数が前年割れしたのだ。企画部門にいる人間ならこの意味は分かるだろう。今後スマートフォン関連の研究開発投資が細っていく。

www.sankei.com

米調査会社IDCが1日発表した2017年のスマートフォンの世界出荷台数(速報値)は、前年比0.1%減の14億7240万台となった。

 

スマートフォンの出荷台数が今後増えない理由

 2017年のスマートフォンの出荷台数は約15億台。世界の人口が76億人と言われているから、全世界の人がスマートフォンを持ったとして5年に一度の買い替えサイクルの出荷台数になった。この数字を見ると、今年だけが特別売れなかった年という訳ではなさそうだ。

 2007年にiPhoneが登場してから、スマートフォンという製品も11年目となった。そろそろ成熟製品となっていい頃合いだ。

 新しいiPhoneが発売されてもワクワクしなくなったのはいつ頃からだろう?iPhone7からかな。今の機種で不満はない。新機種に買い替えるのは、今の機種が壊れてからでいい。みんなそう思い始めている。

 ゲームもサクサク動く、動画も見れる、カメラも奇麗だ。今更買い替える理由がない。もちろん新機種はかっこいいし、欲しいよ。だからって、10万円近い金を出すほどじゃない。

 昔、PCがこうだった。みんな新機種が出るたびにワクワクした。新機種は速いし快適だった。でも、PCの性能が上がってくるにつけて今で十分と思うようになった。今ではPCの新機種がいつ出たかなんて誰も気にしていない。手持ちのPCが壊れたら買いに行く、そのときにどれにしようか考える。

 スマートフォンも同じだ。新機種が出たからってワクワクしない。どうせできることは同じだ。

 こうして、スマートフォンの買い替えサイクルは伸びていく。それに伴い、スマートフォンの出荷台数は年々減っていくだろう。

 

これからのスマートフォン

 新機種にワクワクしなくなった理由は。性能が上がり過ぎたからだ。appleやサムソンのようなメーカーだって困っている。次の新機種の新機能は何にしよう?いいアイデアが浮かばない、そんな状態だろう。

 一般論で考えると、今後のスマートフォンの進化の方向は5つしかない。

  • 軽くなる
  • バッテリーの持ちがよくなる
  • ディスプレイが奇麗になる
  • 落としても壊れにくくなる
  • カメラが奇麗に写るようになる

 これらは一気に進まない、ジワジワと性能があがるものばかりだ。部品屋さんの長い研究開発が必要なものばかりだからだ。

 

投資が減る

 これまでスマートフォンが急激に性能を上げていった理由は、売れるからだ。正確には毎年売り上げ台数が伸びていたからだ。

 こういう状況だと、部品メーカーの企画部門は、スマートフォン向けの部品の開発に先行投資しやすい。市場が伸びているなら、先行投資しても回収できる可能性は高い。ところが、市場が伸びていないと先行投資するのは難しい。性能よりも価格への要求が大きくなるからだ。

 こうして部品メーカーが研究開発費を絞ると部品の性能は上がらず、スマートフォンの性能も上がらなくなる。

 

負のフィードバックループが回る

 投資のされなくなった部品、それを組み合わせてスマートフォンは売れなくなる。すると、ますます部品に投資がされなくなる。負のフィードバックループが回る。

 これはスマートフォンに限ったことではない。PCやデジタルTVだって、同じことが起きた。みんなが通る道なのだ。それだけに、この道から外れるのは難しい。

 

困った、、次のアイデアがない

 11年前にiPhoneが出てきたとき、みんなが何に驚いたかというと、マルチタッチパネルを使ったユーザーインタフェースにだった。携帯電子端末に電話機能を付けるというアイデアは随分前からあった。だから、何を作ればいいかは分かっていたんだ。それをどう作ればいいかが分からなかった。

 今は状況が違う。次に何を作ればいいか、アイデアがない。困った状況だ。Watchが転んだのが痛かった。かろうじてAR(Augmented Reality)やAI(人工知能)がネタとしてあるだけだ。しばらくはこれでなんとかするんだろう。

 

まとめ

 スマートフォンの終わりが始まった。

 この先スマートフォンをどう進化させればよいのか、良いアイデアはなさそうだ。ジワジワと特性は上がるだろうが、再び勢いを取り戻すのは難しい。

  • 軽くなる
  • バッテリーの持ちがよくなる
  • ディスプレイが奇麗になる
  • 落としても壊れにくくなる
  • カメラが奇麗に写るようになる

 

 

NECの新しい中期経営計画は、コストカット継続

headlines.yahoo.co.jp

 

 NECが3年間の中期経営計画を発表しました。

 発表資料を眺めてみましょう。

 

 まずは、前回の中期経営計画(2018中期計画)のおさらいです。以前の計画では、営業利益を586億円増やすつもりだったのに、実際は314億円減りました。

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 そこで、改めて計画を立て直したのが今回の2020中期計画です。

 やることは、(1)収益構造改革(コストカット)、(2)事業成長 の二つというわけです。収益構造改革(コストカット)の大きさがすごい。600億円利益を増やすといっています。こんなに削りまくって、事業を成長させる余力は残るのでしょうか?

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 ところで、前回の計画とどこが変わったのでしょうか?

 前回の2018中期計画を見てみましょう。

 ほぼ同じですね。コストカットと事業成長です。違うのは事業成長の項目が、以前は3つ(セーフティ事業、グローバルキャリア向けネットワーク事業、リテール向けITサービス事業)あったのは、今回は1つ(セーフティ事業)に絞ったことです。

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まとめ

 NECの中経営計画が発表された。中身は、コストカットと事業の成長と、基本的な内容。前回の中期経営計画と変わらない。

 コストカットを続けると成長資源もなくなるけど、今は我慢なのかな。

ローラのCMって良いよな

ローラのビットコインのCMが始まった。

そう言えば、ローラって昔はおバカキャラでTVに出ていたよな、と思い出した。


仮想通貨取引なら【DMM Bitcoin】「Cafe読書」篇 30秒

 

 

ローラのCMでは、バーボンのJIM BEAMのが好き。かっこいいんだよね、このCMのローラ。口元のホクロを強調してセクシーさもプラスしている。こういうかっこいい映像を撮れる人は他にいない。


ローラ CM バーボン サントリー ジムビーム 「Squeeze」篇

 

 

一方、楽天モバイルのCMも美人ですよね。


ローラ、チャレンジは「ドキドキ、ワクワク」 「楽天モバイル」新CM「Super Challenge 編」

 

こうやって見ると、おバカなキャラを演じたり、カッコ良かったり、美人だったりと、ローラって才能豊かだ。

 

大の大人がブログを書く理由

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 いい大人がブログを書いている。その尋常の無さを上の記事は訴えているように思う。

 

 かつてブログが流行った時期があった。誰でも簡単に書ける、ブログを書くのは楽しい、アフィリエイトで儲かる、そんなフレーズがネットを飛び交った時期だ。時代は流れて、今やブログを書き続けるのは変人だろう。

 昔スキーが流行った。ユーミンこと松任谷由実さんが、恋人はサンタクロース♪や、ブリザードリザード♪と歌った頃だ。「スキーをしない理由が分からない」、皆そう言っていた。時代は流れ、今スキーをする者は少ない、よっぽどスキーにハマった物好きか、変人だけだ。新たにスキーを始める若者は少なく、残るのはおっさんばっかりだ。

 

 ブログを書くのも今や物好きか変人だけだ。twitterやLineの方が簡単だし、instagramの方が楽にいいねをもらえる。ブログを書き続けるのは面倒で誰にでもできることではない。アフィリエイトで儲ける者などほんの一部でしかない、残りの大部分は数百円レベルだろう。新しくブログを始める若者は少なく、残るのはおっさんばっかりだろう。

 それでもブログを書き続けるのはなぜだ? 残ったブロガーに聞きたい。

 私はブログを書き始めて9年目だ。書き続ける理由は、10%の欲求、20%の達成感、30%の自身の備忘録、40%の惰性だ。自分の内なる表現欲求など僅かなものだ。それでも、ブログを書き続ける。

自主性の乏しさは罪である、自主性を求める社会

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 自主性のあることが尊ばれる風潮があるけれど、自主性がなくても別にいいじゃないかという記事。

 

 ま、本当のところ自主性がなくても別にいいだろうし、どんな性格であっても人に迷惑をかけるわけでもない。実際、女子は自主性がなくても非難されないし、むしろ自主性が無く男性に付き従うことが美徳とされている。

 このように考えると、自主性が必要だとプレッシャーをかけられるのは、男子が主だといえる。

 

 この自主性尊重の風潮はどこからきているのだろうか?

 ここには、二つの側面がある。一つは、会社の組織で求められる性質という側面。二つ目は、女子から求められる性質という側面。

 

(1)会社から求められる側面

 日本だけに限らず欧米先進国では大量生産といった従来型の仕事の仕方が行き詰まっている。アメリカ型の会社では、従業員一人一人に明確に決まった仕事が割り当てられており、その範囲内で仕事をすればよかった。今やそんな働き方は、レストランやスーパーマーケットのようなごく一部の簡単な職業にしか通用しない。

 会社を取り巻く外部環境の変化は速度を増し、あらかじめ決めたジョブディスクリプションは役に立たない。そのため、組織も階層構造をなるべく減らし、フラットな組織にして、リーダーのような役割を固定せず、メンバー一人一人が自律的に動く組織が良い組織と言われ始めている。 

ネットワーク組織―社会ネットワーク論からの新たな組織像

ネットワーク組織―社会ネットワーク論からの新たな組織像

 

 

 また、こういった自律的に動く人間にはモチベーションが大事になる。他人から強制されて動くとき、人は決められたことしかしないため、本人の内なるモチベーション(内発的動機)で動く人間が求められる。そういったこともあって、モチベーションに関する本が流行ったりもしている。 

 

 このように、ビジネス環境が変わってきたため、自主性のある人間が会社では求められるようになっている。適材適所という視点で言えば、自主性のない人に適した椅子がどんどん減っている。

 

(2)女性から求められる側面

 「日本男子」。この言葉には強い意志と使命感を持った男子のイメージがある。もともと日本では男子というのは自主性があるものと決めつけられている。そして何かを成す男子が尊敬されている。

 このステレオタイプの価値観は今でも女子の間に根強く残っている。

 臨機応変に機転が利き、人が思いつかないような事を考えつく、そんな男子をみんな好きだ。のび太よりデキスギ君が女子は好きでしょ?

 

 女子が自主性のある男子が好き。だから、男子は自主性の強弱は、優劣につながるのだ。

 

まとめ

 シロクマさんのブログを読んで、自主性について考えた。

 本来、自主性なんか無くなって誰かに迷惑をかけるわけではないのだが、自主性が求められる理由がちゃんとある。

 一つ目は、ビジネス環境が変わって会社で自主性が強く求められること。二つ目は、女子が自主性を男子に求めること。

 こうやって自主性が求められるのだから、自主性のある男子はエライのだ。

 

 

 

 

 

 

wikipediaが広告費を受け取らない訳、広告は集合知を殺す

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 相変わらず鋭い洞察をするシロクマさんの記事。ゲーム攻略情報を題材に集合知がsu衰退したのではないかと、指摘しています。

 インターネットを使って個人が情報発信するようになったころ、一人一人の知識・知恵は小さくとも世界規模でこれらが合わさることで、素晴らしい知恵が生まれると考え、その知恵を集合知と呼ばれていました。集合知こそが社会を進化させる決め手だと思われていました。

 私は、インターネットに起こった2つの変化(プラットフォームの変化、インセンティブの変化)が、集合知を衰退させたと思っています。

 

プラットフォームの変化:シェアハウスから個別住宅へ

 集合知が世界を変えると言われていた頃は、SNSはまだ登場せず個人ブログも少ない時代でした。その頃は、掲示板(bbsやwiki)が情報発信のプラットフォームでした。皆が一つのページに書いたり読んだりし、自由な情報交換を一つの場で行っていました。いわばシェアハウスのような場所でした。そこでは、活発に情報交換・議論が行われ、中には有志により情報のまとめやFAQを定期的に作るところもありました。
 当時はGoogleのようなネット検索技術が未熟であったため、新しい場を立ち上げてもそれをみんなにみつけてもらうことは難しく、有名な場に人と情報が集まっていました。そうして集まった情報が集合知へと昇華していました。

 

 今は、SNSや個人ブログがネットの主要なプラットフォームになっています。そして、ここで行われているのは、個人による今日何を食べた・何をしたといった断片的な情報の発信が中心となりました。そこは、いわば個別住宅のようなプライベートな場です。それらはまとめられることもなく、複数人の情報が融合することもなく、発信された情報を集合知に昇華する作業は行われなくなりました。

 

インセンティブの変化:同好サークルから個人の利益へ

 「集合知」の時代、掲示板上で行われいていたのは同好サークルの交流でした。ゲーム攻略、バイク、オーディオ、学問など、そのトピックの好きな者が集まり情報交換をしていました。まとめやFAQを作ることで繰り返しの議論は遠ざけられ、より深い内容へと情報は厚みを増していきました。この場に参加するモチベーションは、そのトピックに関する興味が主でした。

 一方、今ネット上で情報発信するのは、広告収入を目的としていたり、「いいね」をもらい(つまり承認欲求を満したい)ためです。そして、多くの集客をするため、あるいは「いいね」をもらえるトピックが選ばれているように思います。つまり、発信される情報は、エンターテイメント性が追及され、一般受けするものを狙う傾向があります。また、情報の正しさを検証されることはなく、いわゆるフェイクニュースを生みやすい環境となりました。
 このため、似た情報ばかりが発信され、ネットに集まる情報は偏るようになりました。そうして偏った情報からは集合知に昇華することなく、「衆愚知」となっています。 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 

 


まとめ

 世界を変えると言われた集合知が衰退した。
 その原因は、情報発信のプラットフォームが掲示板からSNS・個人ブログに移行したこと、情報発信のモチベーションが広告費獲得に変わったためでしょう。

 

追記

 オンライン百科事典wikipediaは広告費を受け取らないことをご存知でしょうか? 集合知の極みと言われるwikipediaは広告費ではなく寄付金で運営されている。それは、広告費で運営することで集合知に昇華する力を失うことを、運営者が知っているからでしょう。

 

ガラパゴス化するiPhone

jp.techcrunch.com

 

世界で一番売れているスマートフォンはサムソンだ。日本では例外的にiPhoneが売れているけど、、、。スマートフォンの機能(カメラ、大画面、防水性等)で、iPhoneはサムソンより遅れている。

 

下はサムソンのCM。iPhone好きの青年がサムソンに乗り換えた生活を描いている(詳細は上の記事を見て欲しい)。世界基準と日本基準の違いを知るきっかけになる。

 

youtu.be

マストドンをビジネス視点でみたとき、マストドンがとてもつまらないものに見えた

 【engadget日本版】『マストドンをビジネス視点でみたとき「流行るかどうか」は「どうでもいい問題」である

 企業が顧客コミュニティを作るのにマストドンを使え、というのが上の記事の主張に思える。
  
 こうなったらつまらないと思わないか?
 企業の顧客コミュニティなんか、別にマストドンでなくて構わない、そうなんでも良いんだ。企業掲示板、メーリングリストfacebook、Lineなんでも手段はあるじゃないか。
 
 そうじゃないんだ。マストドンは楽しいんだ。
 昔、apache自宅サーバを立ち上げたり、1FDLinuxで自分だけのディストリビューションを作ったりしたあの楽しさ。プラモデルを作っているのに似た楽しさがマストドンにある。
 自分の立ち上げたコミュニティサービス。それをどう使おうか想像するだけでワクワクするじゃないか。マストドンコミュニティはそんなワクワクで推進されている。
 
 ビジネス視点でマストドンをみると、上の記事の見方が妥当だろう。流行りのものを使って顧客の関心を惹く。基本的なアプローチだ。これってつまらないものの見方だ。マストドンが終わって次にXXドンが流行ったら、同じことを言うんでしょう? 基本構図は「流行りもので顧客の関心を惹く」なのだから。
 

まとめ

 マストドンをビジネス視点で見るとつまらない。
 大事なのはマストドンとどう関わるとワクワクするかだ。

不仲説に見るSNS拡散の法則:建前としてのサプライズ、本音としての優越感

 ネットを見ていて、不仲説の記事が目につく。
 『松本人志がダウンタウン不仲説に本音「別に良くはない」』、『オグシオ不仲説否定?小椋久美子さん「そこまで…」』、『菜々緒、桐谷美玲との「不仲説」についてInstagramで言及 その内容は?
 
 何故にこんなに不仲説の記事があるんだろう?
 
 不仲説の記事は、アクセス数・視聴数を稼げる(読み手側の要因)のだろう。また、「不仲だと言われていますが、実際のところどうなんですか?」などとインタビューして記事にしやすい(書き手側の良い運)のだろう。
 アクセス数・視聴数を稼げる人気記事だとすると、それは何故なんだろう?それは、不仲説記事がある読者にはサプライズを与え、別の読者に優越感を与えるからだろう。つまり、広い読者層にインパクトを与えるのだろう。
 サプライズを受ける読者というのは、不仲説の対象人物が好きで憧れているような、いわゆるファンだ。良い人だと思っていたのに、そんなネガティブな一面があるなんてびっくり信じられない、そういう印象を与える。
 一方、優越感を得る読者というのは、人間は仲良くあらねばといいう道徳規範をもって、そうではない対象人物を貶める。そして相対的に自分が優位に立つことができる。例えば、芸能人の不仲説の場合は、あんなに成功していると思っていたけど道徳的にはダメなのねと、相手を貶めることができる。いわゆる、他人の不幸は蜜の味というやつだ。
 噂話のネタとして不仲説を考えると、SNSなどで拡散しやすい性質をもっていることがわかる。一般人が、不仲説記事を読んだ時、優越感を感じつつ、友人等と記事をシェアする際には「信じられない、びっくりしちゃった」等のコメントをつける、つまりサプライズを演じることが可能である。そのため、本音は優越感を感じつつ、建前としてのサプライズを使うことができる。気兼ねなく噂話を友人として、優越感を感じることができる。
 不仲説というのは、SNS時代の優秀コンテンツなのだ。

まとめ

 不仲説記事が多い。不仲説記事は、SNSで拡散しやすい性質をもっているためだろう。それは、不仲な芸能人に対して、建前としてサプライズを演じつつ、本音として優越感を他人とシェアできるために思う。

日本の炎上政治は、残念

 「「炎上政治」と“脊髄反射”」(シロクマの屑篭)
 
「保育園落ちた日本死ね!!!」という匿名記事が炎上し、これが政治の場で取り上げられている。これについて、世論の収集方法として偏っている。これが上の記事の趣旨だ。

 集合知は炎上からは生まれない。ネットにより様々な知が集まり、集合知として昇華する。集合知により、社会は豊かになる。そんなことは無くなったのだろうか。個人がネット上で考察や意見を述べ、それに刺激されて新たな考察が生まれる。そうしてより合わさった知が、集合知である。
 「日本のネットは残念」。かつて梅田望夫氏が述べた言葉だ。日本では、ネット上で考察や議論が浅いことを評して「日本のネットは残念」と言ったのだと思う。上のブログのタイトル”脊髄反射”も、考えなしで反応している様子を表現したのだろう。
 かつて2ちゃんねるの発の言葉に「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない」とネット民を表したものがある。一人一人が反射的に嫌いを表現する。好きに対する反応が鈍く、嫌いに対する反応が鋭い。そうして脊髄反射の嫌いが寄り集まって炎上が起こる。
 「ネットのバカ」(新潮新書)は、有名人のゴシップに群がるネットの人々を分析している。
 ネットのご利益である集合知を正立させるのは、一人一人の考察と意見である。脊髄反射の好き・嫌いからは集合知は生まれない、生まれるのは衆遇である。炎上政治とは衆遇政治となる。
 日本の炎上政治は残念なのだ。 

関連エントリ

AI(人工知能)によって仕事がなくなる

 今日のNHKクローズアップ現代のタイトルは「仕事が無い世界がやってくる?!」だった。「機械・人工知能・AIが奪う、なくなる職業・仕事のランキング」(IDEASITY)も、似た話だ。
 人工知能(機械)が人間の代わりに仕事をするようになる。これは、人間にとって幸福なのか?不幸なのか?という話だ。
 古代ローマ時代では、奴隷が労働を行っていた。奴隷が生産する農作物をローマ人が食べていた。つまり、ローマ人は働くことなく生活していた。奴隷の生み出す富はローマ人のものだった。ローマ人には奴隷に仕事が奪われる、という感覚は無かっただろう。
 では、人工知能(機械)が生み出す富は、誰のものになるのだろうか?これが大事なポイントである。
 もし、この富が社会全体に配られれば、人は働く必要が無くなる。機械が生産をし、サービスをする。人間は欲しいものを得て、余暇を楽しむ。そんな世界がやってくる。
 もし、機械の生み出す富が、一部の人間(大抵は裕福な人)が独り占めすれば、残りの人々は富を得ることができず貧しい暮らしをすることとなる。
 人工知能(機械)が生み出す富をどう分配するのか? 社会システムの問題である。今のような資本主義では不幸な方に進むだろう。古代ローマは資本主義ではなかった。

グローバルな世界のインターナショナルな意見と、シャープの再建

 『<シャープ>鴻海が買収へ…6000億円超拠出 最終調整』(毎日新聞@Yahooニュース)

シャープが電子機器受託製造大手、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業からの出資を受け入れ、同社傘下で再建を図る方向で最終調整していることが4日分かった。実現すればシャープは鴻海に事実上買収されることになる。

シャープ 鴻海支援額7000億円規模 機構側の形勢逆転』(毎日新聞

経営不振に陥っているシャープは4日、電子機器受託製造大手、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業による出資を受け入れる方向で最終調整に入った。鴻海は支援額を7000億円規模に上積みしたとみられる。

 シャープの再建を巡って、日本政府(産業革新機構)と台湾企業(鴻海(ホンハイ))が取り合いをして、台湾企業がシャープを買う。簡単に言えば、こういうことです。
 
 企業活動はグローバル化しています。例えば、Googleは世界中にオフィスや研究所があり、様々な人種の従業員が働いています。スターバックスも、世界中に店舗を展開しています。日本の製造業も製造拠点を海外に持っており、従業員数は日本より海外の方が多い企業もあります。
 こうして、企業にとって”国”という単位が意味を持たなくなってきています。ですから、”日本の”会社という考え方も意味がありません。
 オープンイノベーションという流れで言えば、技術は金で買う、世の中になっているということです。世界中の研究者や企業から、技術は金で買える、ということです。
 
 シャープに関して、今後「外国に日本の技術が流出する」とか、「日本の製造業の弱体化」といった、”日本”を中心とした発想の意見が噴出すると思っています。こういう”国”を意識した発想では、インターナショナルな枠組みから思考から抜けれないのではないかと思います。
 
 ”国”という分類が意味のないグローバルな企業活動の時代において、シャープの技術を金で買った企業がいる、ということなのだと思います。7000億円で売れる技術を育てたシャープの従業員はすごいと思います。その技術を、鴻海(ホンハイ)の経営力で価値に変換できるとしたら、(グローバルな意味で)世界は豊かになるのでしょう。