東京写真美術館で「コミュニケーションと孤独」を観た。
今年のテーマは「平成」です。
メールやインターネットの普及、肖像権侵害や個人情報保護、コミュニケーション障害や孤独死など、おもに平成という現代に起き始めた現象により、他者とのコミュニケーションのはかり方、人やものとの距離の取り方は変化し、複雑化が進んでいます。何かと直接対峙することによってできあがるメディアである写真は、撮影者と被写体の二者間に何らかのコミュニケーション、関わりが必須となります。写真によって作品を制作する作家たちが、こうした状況のなかで、何を撮影し、表現しようとしているのか、そして、作家と被写体、そして鑑賞者との関係性にはどのような変化が起きているのでしょうか。
本展では、当館の34,000点を超えるコレクションの中から、平成年代に制作された作品をご紹介しながら、時代とともに変化してきたコミュニケーションのありかたを考えます。
この展示会を観ながら、「コミュニケーション」「孤独」「共感」「理解」「意見」などのキーワードが浮かんできた。
「コミュニケーション」の目的は、相手を「理解」することであり「共感」することである。平成になって大きく変わったのは「共感」の在り方だ。
かつては、相手の考え・意見を理解し、それに賛同することで「共感」していた。これが、相手の「意見」を「理解」するが、賛同しない。「理解」するが自分の「意見」はあなたのものとは異なる。そういったスタンスでの「共感」の仕方ができてきた。異なる「意見」を持ちながら相手の「意見」に面白さを感じるとき、「共感」すると呼ぶようになってきた。Facebook/TwitterなどSNSのいいねというやつだ。
また、写真や動画を使った「コミュニケーション」においては、「理解」すら伴わない「共感」が行われている。綺麗な風景・インパクトのある被写体、そういった写真を観て、それらを拡散させる。そのとき「共感」したと呼ぶようになっている。そこに「理解」はなく「共感」だけがある。
展示会のタイトルの「コミュニケーションと孤独」に戻ろう。
「孤独」とは「コミュニケーション」できないとき感じる。相手から自分が承認されないときに「孤独」を感じる。「コミュニケーション」することで相手から自分が賛同されることで「孤独」を感じなくしていた。特に周囲の皆が「コミュニケーション」している中で自分だけが「コミュニケーション」できないとき、その「孤独」は深い。
賛同無き「理解」が広がり、「理解」なき「共感」が行われる今、人は「孤独」をどう感じるのだろうか?「理解」なき「共感」があれば、人は「孤独」から逃れられるのであろうか?
展示会を観て、こういったことをつらつらと思った。