kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



「暴走する能力主義 教育と現代社会の病理」(中村高康):こじらせやすい理屈を整理する

  コミュニケーション能力ありますか?コミュニケーション能力を気にする人が多いようです。OECD(経済協力開発機構)が定めた大切な9つの能力(キーコンピテンシー)にも、コミュニケーション能力は選ばれているくらいですから、コミュニケーション能力が無い人はこれからの世界やっていけない、必須の能力と言われています。

  不適切な入試をしていた順天堂大学もコミュニケーション能力を言い訳に使っています。

「女子はコミュ力が高いが20歳過ぎれば差がなくなるので男子を補正」 順天堂不適切入試(毎日新聞)】

 

  ところでコミュニケーション能力って何? どうして必要なの?と質問して明確に答えられる人はまずいません。

  もともとコミュニケーションというのは、自分と相手の関係性において行われるものです。コミュニケーションがうまくいかないのは、自分が悪いのか相手が悪いのか原因がはっきりしないものです。これを個人の力とみなすのは無理があると思いませんか?

  また上の順天堂大学は女子はコミュニケーション能力が高いと主張していますが、それをどうやって測ったのでしょう?測れるわけありません。測れないコミュニケーション能力について、有るとか無いとか言うのは滑稽です。

 

  コミュニケーション能力以外にもリーダーシップや人間力といったよく分からない能力、あるいは人格的要素にまで能力評価を求める風潮があるのは何故でしょう?この問いに答えを出しているのが「暴走する能力主義」です。

  “近年の変化の激しい時代においては、これまでの知識偏重の能力は役に立たない。これからはコミュニケーション能力が必要となる”といった言い方が、昔からあること、世界中にあることを本書はしめしている。(ちなみに、「最近の若者はダメで、このままでは世界は悪くなっていく」という言い方はエジプト時代からあります。また、近年が変化の激しい時代であるというのも怪しくて明治大の方がよっぽど変化が激しい)

  そして、繰り返し主張される“新しい能力”が、新しくもなんともないありふれたもののを言い換えただけのものであることも示しています。

  現代社会に見られる多くの能力論議は、これからの時代に必要な「新しい能力」を先取りし、それを今後も止めていこうとする言説の集まりである。本書では、こえらが時代の転換を先取り、ないし的確に指摘した議論であるというよりも、こうした議論のパターンこそが現代社会の一つの特性なのだ、という立場を展開していこうと思っている。

 

  ジェームズ・ローゼンバウムの能力の社会的構成説を使って考えると、現在は社会的地位を配分するときの理由に能力が使われている(高い地位についた人は高い能力を持っていると考えがちということ)。一方、能力というものは直接的には測れないので、学力や学歴が能力評価指標として代用される。代用品であるがゆえ、なにか新しいもっとマシな能力評価指標を社会は求め続ける。これが本書の論旨です。

 

  本書の良いところは、社会学フレームワークを使って丁寧に上の論旨を説明している点です。このため、ジェームズ・ローゼンバウムやギデンズといった社会学の考え方も知ることができます。教養書といっても良いでしょう。