kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



自己肯定感の高め方

 自己肯定感が下がっている時期がある。こんな日は、自己肯定感について深く考えるチャンスだ。

 

 人は何のために生まれてくるのだろうか?ネットで検索すればすぐ分かる。様々な情報があり、統一した見解はないようだ。人が生まれてくる理由なんてどこにも無いということだ。ただ生まれた。それだけのことだ。

 生きていく価値とは何か?ネット検索すれば、これも統一した見解はない。生きているのに価値などない。そもそも“価値”という言葉は曖昧で不確かな概念だ。強いて言えば、誰かにとって役にたつときそれを“価値”と呼んでいる。だから絶対的な”価値“などなく、あなたにとって“価値”があったり、彼にとって“価値”がなかったりする相対的なものだ。自分にとっての自分の価値は存在せず、自分以外の誰かにとっての自分の価値だけが存在する。

 どうして、生まれた意味や生きている価値を問うてしまうかと言えば、自分が生きていて良い理由がわからないためだ。つまり自己肯定感が下がっているからだ。

 

 自己肯定力を強くするとか弱くするとか考える前に、自己肯定感が高くなる条件を考えるべきだ。自分はどんな条件が揃ったとき、自己肯定できるか?お金持ちになったとき?有名になったとき?誰かに褒められた時?どれも違う。たしかにお金を手に入れれば一時的に自己肯定感が高まる。しかし、その状況に慣れてしまえば、自己肯定感は下がる。仏教では自己肯定などできないと考えるらしい。全てが一時的なものでうつろう。つまり諸行無常

 

  厄介なのは、他人に承認されると少し嬉しいこと。つい他人に承認されたいと思い、相手の望む(と自分が思う)ことをやろうとしてしまう。しかし、他人をコントロールすることはできない。他人が承認するかどうかは、相手次第。相手次第のことで自己肯定するのは不安定だ。

 

  ここで発想を転換しよう。果たして、自己肯定できなければいけないのだろうか?生まれた意味も生きている価値もない人生を、ただそこに生きているという理由で生きている状態なのだ。その状態を肯定したり否定したり自由自在。大した根拠のない判断だ。ならば、自己肯定を求めることが間違っていないだろうか。なぜ自己肯定しなければいけないのか?

 哲学者のニーチェは、正義とは弱者の負け惜しみと主張した。弱者が負けたときに、自分たちは正義だからこれでいいんだと自分を慰めているということ。自分の価値や自己肯定も、正義と同じで根拠のないものかもしれない。 

 

 逆説的だが、自己肯定感が低くても構わないと割り切ったら、随分楽になった。

 心が苦しいとき、自己肯定感の低さのせいにしているが、実は今の自分に対する違和感(このままではいけない、本当はこうではない等々)が根っこにある。こんな違和感には真正面からぶつかってもどうにもならない。なんとかやり過ごす方向に気力を使おう。

 

参考文献

  この記事を書くにあたり、以下の本を熟読しました。

四つの約束

四つの約束