kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



ネットの縁は無縁なのか?

 NHK無縁社会キャンペーンに対する世論が大きい。NHKスペシャル無縁社会〜新たなつながりを求めて〜」を私も見たが、なかなか面白い内容だった。世の中の反響が大きいだけあって考えるきっかけを色々と与えてくれる。

Lets hold hands

 

 考える点が大きくは3点あって、そもそも無縁とはどういう状態なのか?無縁ではなぜいけないのか?どうして日本は無縁社会になったのか?である。これらの点に関しては色々な意見があると思うが、大多数の見方は、以下であると思う。

  • 無縁とはどういう状態なのか? それは、友人、知人、親類がいないあるいはコミュニケーションが実世界にない状態。
  • 無縁ではなぜいけないのか? 無縁では寂しいのでいけない。寂しいとなぜいけないかというと、自殺者が多いからという点を理由として述べられることが多い。
  • どうして日本は無縁社会になったのか? 職を求めて故郷を離れて都会に移り住む人が多いことと、終身雇用制が崩れつつあること。

さて、改めて書き下したものを眺めてみると、論理としては正しいような正しくないような話であることが分かる。特に、「どうして日本は無縁社会になったか?」という部分に関しては、掘り下げが足らない気がする。そこで、この部分を掘り下げてみようと思う。

 都会に移り住むことで地縁と血縁を失い、終雇用制の崩壊が社縁を失わせたという理屈は、正しいのだけれど、では移り住んだ先でなぜ新たな友人を作ることができないのか、会社の友人との縁が会社を辞めた後に何故切れてしまうのか?という点を考えることが重要だと思う。日本が村社会あるいはYou and Usの文化であるため、一度所属集団から外れると新たな集団に所属することは非常に難しい。論理的には個人が複数の集団に属して各集団毎に異なる活動をすることは可能だが、現実には一つの集団に属し、その集団で様々な活動を行うのが普通である*1。それは、集団が新たな人間を受け入れることに後ろ向きであることに起因する。

 さて、幸いなことに現代ではネットがあり、ネットでは新しい人間がグループに参加することは非常に容易である。そのため、ネット上では新たなグループの誕生やその中でのコミュニケーションが活発である。縁という観点からネットを見たときには、コミュニケーションを交わしていた相手が簡単にそのグループから離脱できることが問題視されているように感じる。つまり、いついなくなるか分からない人間とのコミュニケーションは縁ではないという考え方である。しかし、これは無いものねだりである。人が新たな集団に入ることが容易であれば、集団から抜けることも容易である。このような場合を、集団に属する人間の流動性が高いと呼ぶことにしよう。

 日本社会はこの流動性が低いので、都会への住居の移動や終身雇用制の崩壊により、所属集団を失うのである。一方、ネットのように流動性が高いと、仲間が集団から抜けるケースも多くなるので、縁が薄いと感じるのだ。このように考えると、流動性が高いほうが良いのか低いほうが良いのか良く分からなくなってくる。何が正解かは分からないが、まずは、問題の構造を理解することが大切だと感じる。

*1:女子中高生がグループを作って、いつもそのグループで行動するのはこの端的な例である。