kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



「ミニマム」を求める姿勢

 「仕事力について」は、コストパフォーマンスを尺度とする弊害を訴えた記事である。

労働市場における「適職」という語の意味は、意地悪く言えば、「自分が持っている能力や素質に対していちばん高い値段をつけてくれる職業」のことです。とりあえず今はそういう意味で使われている。
(中略)
最も少ない努力と引き替えに、最も高い報酬を提供してくれる職種、それを今の人たちは「適職」と呼びます。そして、就活する若者たちは適職の発見に必死です。
(中略)
消費者的基準からすれば、最低の学習努力で最高の学歴を手に入れたものがいちばん「賢い学生」だということになります。

だから、ぎりぎり60点を狙ってくる。出席日数の3分の2が必須なら、きっかり3分の1休むようにスケジュールを調整する。60点で合格できる教科で70点をとることは、100円で買える商品に200円払うような無駄なことだと思っている。
ほんとうに学生たちはそう信じているんです。

僕の友人が大学の運動部の監督をしています。彼が用事でグラウンドに出られないときに、部員がこう訊きに来たそうです。
「何やっとけばいいんですか?」
彼はその問いにつよい違和感を覚えました。
当然だと思います。これは「何をすべきか」を訊ねる価値中立的な問いではないからです。そのように装っていますが、実際に訊いているのは、「それだけしておけばよい最低ライン」なのです。「あなたから文句を言われないミニマムを開示してください」学生たちはそう言っているのです。

これも友人の医学部の先生から聴いた話です。授業の後に廊下を追って質問に来る学生がいました。教科の内容について訊かれるのかと思って振り返ったら、「これ国試に出ますか?」と訊かれた。
この二つは同じ質問です。
学生たちは当然の質問をしているつもりですが、彼らが訊いているのは「ミニマム」なのです。その商品を手に入れるための最低金額の開示を求めている。

「ミニマム」を求める気持ちを私は理解できます。お金を出して物を買う、あるいは時間をかけて勉強をするなど様々なものは、リソース(お金、時間)の投下量が多ければ多いほど、単位リソースあたりの獲得量は減っていきます(下図)

つまり、努力すればするほど投資対効果(コストパフォーマンス)は悪くなるのです。ならば、「ミニマム」の投資で済ませたいと考えるのは自然でしょう。学生ならば、卒業できる「ミニマム」を見切って効率よく学生生活を過ごすというのはとても合理的な考え方です。

学校システムを少し変えて、たとえば学年で学力下位の10%は留年という風にすると、「ミニマム」という考え方が無意味になって面白いと思う。

実際、金を稼ぐというのは相対評価で行われている。例えば会社では、儲けを従業員で頭割りするわけではなく、その働きにより分配額には差がつけられる。あなたが何かを買うとき、類似品と比べてどっちかを選択するわけだ。選ばれた方が1で選ばれなかった方が0という1と0の世界。学生以外の人はそういう1と0の世界に生きている。そこには、「ミニマム」の努力とか投資対効果といった考え方ではなく、自分は人と比べて1番かそうでないかの2択の世界。

厳しそうに聞こえるが、1番になる種目は割と何でもよいので、学生よりも楽かもしれない。とても細分化された種目で1番になればよい。それは、英語かもしれないし、プレゼンのスキルであったり、プログラムを書くことであったり様々だ。上で述べたように、リソース投下量に対して獲得量は減っていくので、初級者から抜け出して中級者になるのはとても難しい。おそらく、獲得量を気にしては続けていけない。ただ、それが好きという理由で続けていくしかない世界。そんな続けていける「好き」をみつけるのが大切だと思う。「ミニマム」でなく「好き」が大切。