自分の範囲って、自分が思うよりずっと広いんじゃないかな。
自分の持っている物、例えばスマートフォン、アクセサリー、などなど、これは自分ではない。でも、褒められれば嬉しいし、けなされれば腹が立つ。自分と同一化しているのだろうね。
議論するときに、彼の意見と彼の人格を分けて話をするというのは、基本。彼の意見に反対しても、彼の人格に反対しているわけではない。でも、自分の意見に反対されると、何故か腹が立つ。自分の人格が否定されているわけではないのに。
自分という物を厳密に選ぶと、どこまでが自分なんだろう? 自分とは何だろうと、「しない生活」を読んで思う。
- 作者: 小池龍之介
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また、「投資家ウォーレン・バフェットが教えるお金のレッスン」という記事の最後の言葉は、自分の範囲はかなり狭いことを示唆するように思う。
いくつかの「物」は、私の人生をより楽しいものにする。しかし、多くの物はそうではない。私は高価な自家用ジェットを持ちたいとは思うが、6軒の家を所有するのは負担だ。あまりに膨大な物を所有すれば、やがて、所有者が物に所有されてしまうだろう。私にとって、健康以外でもっとも価値があると思えるのは、面白くてそれぞれに個性的な長年の友人たちだ。
繰り返す、”いくつかの「物」は、私の人生をより楽しいものにする。しかし、多くの物はそうではない。(中略)あまりに膨大な物を所有すれば、やがて、所有者が物に所有されてしまうだろう”
自分の範囲は膨れていくのだ。