見方を変える。視野を広げる。相手の視点に立つ。「見る」ことに関する表現(レトリック)はたくさんある。「見る」ことが分かる・考えることと強く関連していることの証左です。
では、目の見えない人は、物をどう認識し・考えているのでしょうか?
この問いに答える本が本書「目の見えない人は世界をどう見ているのか」です。これは、福祉の本ではない。科学者が好奇心を持って視覚障害者の認知を探ろうとする本です。
タイトルの「目の見えない人は世界をどう見ているのか」は、意味深です。「目の見えない人」が世界をどう「見ている」のか、と問われても、見えないのですから”目の見えない人は世界を見ることはできない”と言わざるを得ないでしょう。著者は、「見る」=目による情報の取得、こう捉えるのではなく、「見る」=情報の取得・認識と捉え直しています。
本書の内容を簡単に記します。
「序章 見えない世界を見る方法」 本書のテーマである 自分以外の何者かに変身するという著者の想いが記されています。
「第1章 空間 −−見える人は2次元、見えない人は3次元?」 見えない人が空間をどのように認識しているかを記しています。要約すると、目の見えない人には、正面という認識はない。それゆえ、裏面という認識もないようです。つまり、死角がない。ものを認識するとき、全体的にどのような形になっているかを俯瞰的に認識します。
「第2章 感覚 −−読み手、眺める耳」 感覚器官としての目、耳、鼻等々と、情報獲得の動作である探る、眺める等との関係をまとめています。
「第3章 運動 −−見えない人の体の使い方」 見えない人は、体で世界を探っているということが記されています。
「第4章 言葉 −−他人の目で見る」 著者は「情報」と「意味」の違いを明確に意識しています。そして「他人の目で見る」とは、他人にとっての「意味」を知ることだと言います。そして「意味」を知ることに視覚は意味を持ちません。それ故、見える人も見えない人も、他人の目で見ることを楽しめます。
「第5章 ユーモア −−生き抜くための武器」 見えないことは、見えることに比べてコントロールできないことを増やします。目の見えない人はレトルトパックのパスタソースの味を選ぶことはできません。食べてみるまでそれがどんな味か知る術がありません。コントロールできないことが多いことは、不幸か? そうではないことを記しています。
感想
本書を読んで、思うことを3つ書きます。
4本足の椅子と3本足の椅子
「目の見えない人は世界をどのように見ているのか」、これを体感するために目を閉じてみる。それは違う。目を閉じることは、4本足の椅子から一本の足を切り取ることにしかならないと著者は言います。4本足の椅子から足を一本取れば、バランスの悪い椅子が出来上がる。そうではなく、最初から3本足の椅子を考えよう。バランスよく設計された3本足の椅子。それは4本足の椅子に比べれば横からの力に弱いかもしれない。だけど、足の少ない分軽やかで自由度の高い椅子でしょう。
目の見えない人の世界を想像するとは、初めから3本足の椅子を考えることだと、著者は言う。
目の見えない人の世界は、目の見える人の世界とは全く違う。目の見える人が自分の世界から出発して想像できるような世界ではない、ということでしょう。つまり、全く別物のの世界。そんな別物の世界を理解するには、前知識は不要で邪魔にしかならないと感じます。
情報と意味
情報とは客観的なもの。例えば、貯金が30万円ある、といったものです。誰から見ても同じもの、それが情報です。その情報に対して意味づけがされます。例えば、貯金が少ない(貯金は30万円しかない)、あるいは貯金が多い(貯金は30万円もある)。
情報を共有することと、意味を共有することは、別の作業です。使用する感覚器官やスキルも異なります。また、目的も異なります。
実の所、これまで私は、意味を共有することについて意識したことはありませんでした。本書で述べているのは、意味を共有する作業を楽しむことができる、という可能性です。意味と言うのは、人によって異なりますので、意味を共有するということは違いを共有することでしょう。違うことの理由を探っていく作業は、楽しいかもしれません。