kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



自由という泥沼にはまる

社会は自由になったが、結婚や子育てを考える時間的猶予は短くなった」(シロクマの屑籠)

 どう生きるかとか、色んな選択を社会から強制されなくなった。しかしながら、選択に許される時間的猶予は以前と変わっていない。上の記事は、そんな内容に思える。

 上の記事を読んで、つらつら考えた。以下は、そんな内容だ。

 自由には2種類ある。消極的自由と積極的自由の2種類。消極的自由とは、何かを選択する際に社会や他社から強制されていない状態。積極的自由とは、何かを選択するに際して、自分の意志でそれを選択できている状態。例えて言えば、結婚相手や結婚時期について誰からも干渉されない状態、これが消極的自由。明確な人生ビジョンの下に結婚相手や結婚時期を選べる能力がありそうできる状態、これが積極的自由。

 何かを決めるとき、何かの価値基準に照らしてその良し悪しを判断している。消極的自由な世界では、その価値基準が曖昧だ。だから、決めることができない。決めるために、何が得で何が損かを、ネットに求める。大多数の人はどうしているのか、大多数の人は何を正解と考えているのか、そんな情報を探して、自由度を下げたくなる。

 そうして得られた他人の価値基準で、自分の自由を縛っていく。他人の型で自分を形作る、ネットで情報を漁るとはそういう作業だ。ネットからは様々な型を拾うことができる。どの型が良いのか悪いのか、ここにも消極的自由がある。今度は、ネットで拾った型を選ぶための情報をネットで漁る。

 私はどの型を選ぶべきか、誰も決めてくれない。ネットでみつけた型も、明日には新しい型が現れ、時代遅れなものになっている。

 消極的自由の泥沼からの脱出方法は、思考停止だと思う。「ま、いいか」と考えるのを止める。「ま、いいか」と思えるためには自己肯定感があれば楽だ。「ま、いいか」の後に「なんとかなる」と思えるから。ただし、全ての人が自己肯定感に支えられているとも限らない。

 自己肯定感に支えられて「ま、いいか」と思えない時でも、消極的自由の泥沼にはまってもがいているという自己認識があれば、「ま、いいか」と思えないだろうか。もがくのをやめれば、浮き上がってくるかもしれない。