コミュニケーションと孤独についてつらつら記事を先日書きました。その続編です。
社会学者の宮台真司は「日本の難点」の中で、昔(1960年代をイメージして欲しい)は人間が引越しをしなかった、それが引越しをすることで(つまり人の流動性が増したことで)地域の価値観が弱まっていったと述べた。要するに、ご近所さんと揉めても引っ越せばいいのだから同じ価値観に染まる必要が薄れた。
2000年頃からのインターネットの普及で、価値観は多様化していった。情報がたやすく手に入ることで、これまで「常識」とされていた価値観がウソだということが分かってきた。
子供が勉強していい大学に入って、いい会社に入れば高収入を得られる、そんな常識はウソだと分かった。例外が多いのだ。
正直に誠実に他人に接する人は良い人生を送れる、この常識もウソだった。
職業に貴賎なし、もちろんウソだった。
こうして価値観は多様化し、正しい価値観なんてみつからず、やがて価値観そのものが消え失せた。何が正しいのか分からなくなった。
信じる価値観が無いのは不便だ。隣にいるあいつの価値観は何だ?何を信じているのか分からない。どんな話を振ればウケるか分からない。自然と会話は今の流行りのネタに限られる。
小池龍之介「ありのままの自分に気づく」では、価値観に人間が支えられること、価値観が希薄になると人は他者からの承認を求めることが記されている。
そしてスマートフォンを人々は持つようになった。
自分を支える価値観が無いから、誰かとつながっていたい。LINEを頻繁にチェックする。その向こうのあいつらにも価値観が無い。やりとりするメッセージはつながっていることを確認するハートビート。「共感」という名の湿った空気を送り合う。
SNSで共有するものなんてない。つながっているという空気を保つためにメッセージをチェックする。空気が無ければ窒息するから。
まとめ
ポエムのようになってしまったが、書きたかったことはこれだけ。
インターネッの普及で情報が増え、正しいという価値観が無くなった。価値観を持たない者同士のコミュニケーションは難しい。共有するものや理解するものが無いから。LINEなどのSNSは空気感を維持するための道具なのだと思う。共有するものがない相手に送るのは、「共感」という湿った空気感なのだ。