kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



小説のストラテジー(井上亜紀):芸術を楽しむとは、表面を味わい尽くすこと

  本書は、小説を楽しむとはどういうことかを記した本である。その焦点は、娯楽小説ではなく芸術小説に向けられている。

  皆さんは、村上春樹の小説を面白いと感じているだろうか?意味がわからないと思って読んでいる人はいないだろうか?私は、よく分からないなと思いながら読んでいる。羊をめぐる冒険、スプートニックの恋人、どれもよく分からない。

 

  組織された感覚的刺激によって快楽を引き起こすのが芸術の機能である。

  小説の1シーン、1シーンを個々に楽しむだけでなく、それらが全体としてどのように構成されており、その構成において各シーンがどういう役割を果たしているのか、こういったことを読み解きながら快楽を得るのが芸術である。これが著者の考えだ。

 

  ただ、そうした体験が成立するにはひとつ、条件があるでしょう。受け手の側からの積極的な関与です。

  読み解くという作業は結構しんどいもので、受け手側(読者)の能動的な活動が無ければ芸術は成立しないと言うのです。

 

作品を挟んで、表現者と鑑賞者の間で、ある種の遊戯的闘争が展開されるのが芸術ですが、

  受け手側の能動的な活動は、「闘争」という表現で強調されています。

 

いわば読解は演奏です。

本の読み手は、演奏を聴く観衆ではなく演奏者として能動的な活動を要求されます。

 

  受け手に対しても読み手に対しても、従って、まず要求されるのは表面に留まる強さです。作品の表面を理解することなしに意味や内容で即席に理解したようなふりをすることを拒否する強さです。

  小説は書かれている文字が全てであり、これを「表面」と著者は呼んでいます。「表面に留まる」とは、小説の作者が誰だとか、彼の信念や生い立ちなど、小説の背景にあるものを一切除外して、文字だけを見ることを意味しています。

  絵に例えましょう。美術館に行けば、ゴーギャンやモネ、ゴッホなどの展示会で、彼らがどういう生い立ちで、交友関係がどうであって、誰からどんな影響を受けたかを解説しています。こんな解説を読んで分かった気になってはいけないということです。ただ絵だけを見て、あながたその絵から何を読み取るか、それだけが大事なのだと著者は言います。

 

 

  次に、小説を楽しむとは何を楽しむことか、著者は話を進めます。

我々が反応しているのは記述の運動であって、プロットでも物語でもないのかもしれない。

 

物語が必要なのは、そこから記述を生み出すためです。

「物語」と「記述」という二つのキーワードが出てきます。「物語」はプロットとも呼ばれるもので、お話の筋書きです。例えば、ジブリ映画の「風立ちぬ」では、第2次世界大戦前、飛行機の設計技師の男が結核を患う妻を心配しながら零戦の開発を進める、これが「物語」です。

  一方、「記述」とは二人が関東大震災地震が起きた時の電車の中で出会い、数年後再開する。男が紙飛行機を飛ばし、女がそれを捕まえ、それをキッカケに心がつながる。こういったものが「記述」です。

  物語自身は目新しいものはなく、すでに出尽くしていると著者は言います。物語自身はどこにでもあるありふれたもので、その物語を如何に「記述」しているかを読み解くことが、小説を楽しむ事である。

 

  小説だと分かりにくいかもしれないが、これが絵や写真だともう少し分かりやすい。「物語」を被写体に置き換えると、可愛い女の子、壮大な山、壮絶な事故現場等、被写体は出尽くしている。その被写体をどう表現するかをカメラマンは競っており、物珍しい被写体探しを競っているわけではない。

  例えば、世界的な動物写真家である岩合光昭さんは猫写真も撮っている。彼の猫写真は被写体は平凡だけど、その背景を工夫することで面白い写真に仕上げている。下の「世界猫歩き2」の表紙では、砂浜と猫の組み合わせが面白い「記述」となっている。

 

岩合光昭の世界ネコ歩き2

岩合光昭の世界ネコ歩き2

 

 

まとめ

  芸術を味わうとは、「表面」を味合うことで、そのためには受け手側の能動的な働きかけを必要とする。どんな「記述」がされており、一つ一つの「記述」が全体としてどんな構造を作っているのか、その構造において細部がどのような役割をしているのかを解き明かすのが、芸術を楽しむということである。小説においては「記述」をするために「物語」を必要とするが、楽しむのはあくまで「記述」である。

 

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)