kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



小説「蜜蜂と遠雷」(恩田陸):ストーリだけでなく表現を追いたい小説

 映画「蜜蜂と遠雷」が良かったので、小説も読みました。kota2009.hatenablog.com

 

 ピアノコンクールを舞台にした小説。多くのピアニストがその腕前を競い、審査員が彼らの演奏を評価する。コンクールが1次予選、2次予選、3次予選、本選と進む中で、コンテスタント同士が互いの演奏に刺激され自分の演奏を深めていく。

 

 小説内のコンテスタントはそれぞれ役割を持っている。ドラえもんの登場人物のび太ジャイアンスネ夫、しずかちゃんが夫々、優しさ、がき大将、要領良し、良識を代表しているように。

 正統派の天才マサル、型破りの天才風間塵、眠れる天才栄伝亜夜。この3人の演奏を解説する役割をコンテスタント高島明石と審査員三枝子が果たす。

 

 小説を読み進める上でストーリを追うことは容易だ。幼いころ天才ピアニストとして名を馳せたものの挫折した栄伝亜夜の復活ストーリだ。しかし、ストーリを追うことは大して重要ではない。「小説のストラテジー」で井上亜紀が述べたように、小説とはストーリを味わうものではなくそれをどう表現しているか(「記述」)を味わうものだとするなら、「蜜蜂と遠雷」の「記述」に注意を払う必要がある。

kota2009.hatenablog.com

 

  「記述」を追う上で重要になるのがホフマン先生。故人となったホフマン先生は謎かけのような言葉で音楽家にとって重要なものは何かメッセージを投げかける。

 皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。

 文字通り、彼は『ギフト』である。

 恐らくは、天から我々への。

 だが、勘違いしてはいけない。

 試されているのは彼ではなく、私であり、皆さんなのだ。

 彼を『体験』すればお分かりになるだろうが、彼は決して甘い恩寵などではない。

 彼は劇薬なのだ。

 中には彼を嫌悪し、憎悪し、拒絶するモノもいるだろう。しかし、それもまた彼の真実であり、彼を『体験』する者の中にある真実なのだ。

 彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。

 「ギフト」とはどういう意味か、「試されている「皆さん」とは誰なのかに注意して読み進めると、面白い。

 

 また、次のフレーズも重要だ。

(塵が音楽を外に連れ出したいなぁと呟いた後のホフマンの言葉)

 よし、塵、お前が連れ出してやれ。

(中略)

 ただし、とても難しいぞ。本当の意味で、音楽をと外へ連れ出すのはとても難しい。私が言っていることは分かるな?音楽を閉じ込めているのは、ホールや境界じゃない。人々の意識だ。

 

 こういったホフマンの言葉を携えた型破りの天才風間塵の演奏を中心に、コンテスタントたちのなぜピアノを弾くのか?その理由がどう表現されているかを追うことが、本小説の醍醐味だろう。

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)