kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



病牀六尺(正岡子規):さすが、文章が美しい

病牀六尺 (岩波文庫)

病牀六尺 (岩波文庫)

 

 明治時代の俳人 正岡子規は34歳という若さで病死した。その晩年に病の床で書き続けた随筆集が、この病牀六尺。その文章は、悲観な色に染まることなく多様なことが綴られている。

 

 この中の文章は美しく、私たちの普段の生活にも応用が効きそうなものも多い。

 冒頭は次のように始まる。

病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。

 六尺(約1.8メートル)の寝床から動くことができず、この寝床が全てでありむしろ広すぎる。こう述べる文章には、不思議と悲壮さがない。

 

 この文章は、まず少なすぎる量を挙げ、それでも自分には多すぎることを示す、という構造をしている。これは、色々なところで応用が効く。例えば、

  • 給料8万円、これが私の収入の全てである。しかもこの8万円が私には多すぎるのだ。
  • 毎日10分、これが一日にスマホを触る時間である。しかもこの10分が私には多すぎるのだ。
  • 食事制限1500キロカロリー、これが一日に食べる量である。しかもこの1500キロカロリーが私には多すぎるのだ。

 

 あるいは逆に、まず多すぎる量を挙げ、それが自分には少なすぎることを示す、というパターンも考えられる。例えば、

  • 睡眠10時間、これが一日に寝る時間である。しかもこの10時間が私には少なすぎるのだ。

 

 

 また、以下も有名な文章であるが、味わい深い。

 余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは如何なる場合にも平気で死ねることかと思っていたのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きている事であった。

どんなにつらい人生も平然と生きていくことが悟りである、という意味である。

 この文章は、表裏一体であることを持ってきてAではなくてBであったという構造をしている。これを応用すると、次のような文章を書くことができる。

  • お金は稼ぐことが難しいと思っていたが、そうではなくてお金は使うことこそが難しい。
  • 会話上手とは話すことが上手いことと思っていたが、そうではなく聞くことが上手いことであった。
  • 成功とは他人より優れていることだと思っていたが、そうではなく他人が気にならないことであった。

 

まとめ

 本書には、美しい文章がたくさんあり、それは普段の生活に応用が効く。