恩田陸の小説「蜜蜂と遠雷」を読み返しました。読み返すと、1度目には気づかなかった部分が分かって面白い。今回は、1度目には気付かなかった部分を中心に記して行きます。
この小説は、四人のピアニスト(栄伝亜夜、風間塵、高島明石、マサル)を登場人物に、ピアノコンクールを舞台として、クラシック音楽業界のビジネスモデル、ピアニストとして生きることの難しさ、音楽演奏(芸術)に順番を付けるコンクールの不条理さを描きつつ、四人のピアニストの心理を深く描いています。
この小説の中でキーとなる部分は、
- ピアニストの重鎮ホフマンが、風間塵は“ギフト”であるという内容の遺言を残した。“ギフト”とはどういう意味か?
- 風間塵は、ホフマンと“音楽を外に連れ出す”と約束している。“音楽を外に連れ出す”とはどういうことか?
この謎解きをしながら、音楽はどこから生まれるのか? 作曲家が音楽を作り、演奏家はただそれを再現しているマシンなのか?音楽はエンタテイメントなのかアトラクションなのかについても立ち寄りながらストーリーが展開されていく。
ギフトについて考えながら読むと、コンテストの演奏順序が、風間塵の後に栄伝亜夜であることが必然であることがわかります。
また“音楽を外に連れ出す”について考えると、以下のフレーズが重要な意味を持っていることがわかる。
「作曲家も、演奏家も、みんなさ。元々音楽はそこらじゅうにあって、それをどこかで聴きとって譜面にしてる。さらには、それを演奏する。作り出したんじゃなくて、伝えてるだけさ」
この伝えているという考え方は、音楽業界で一般的なものでしょうか?さらには、音楽を外に連れ出すという考え方は、一般的なのでしょうか?それとも作者の恩田陸の個人的な考えなのでしょうか?音楽関係者に是非お聞きしたいポイントです。
さて、”元々音楽がそこらじゅうにある“とするなら、高島明石の“生活者の音楽”というスタンスも意味を帯びてきます。高島明石は、生活の全てをピアノ(の練習とコンクールでの発表)に捧げるプロの音楽家ではなく、普通に仕事をし家族と過ごす生活をしながらもピアノを演奏する“生活者の音楽”があったて良い、自分はそれを成し遂げたいと考えています。“元々音楽がそこらじゅうにある”と考えるならば、“生活者の音楽”とは生活者の周囲にある音楽を奏でることを意味するでしょう。そこには、プロの音楽家の周囲にはない音楽があり、それを伝えることは、個性となり得ます。
ピアニストにとって個性がどこからくるのでしょうか。同じ譜面を使って曲を弾き、どんなふうに引けば聴衆に受けるかもだいたい分かってきている中で、各ピアニストの演奏は均質化し個性を失う。聴衆の好みを目指したそれは、エンターテイメントではなくアトラクションとなります。ウケる要素を目一杯仕込んだそれは、ウケるけれども感動させはしない。プロのピアニストの演奏はそういうアトラクションになりがちと、この小説で言っているように思えます。