伊坂幸太郎の小説「死神の精度」は、千葉と名乗るとぼけた死神が人間と関わる六篇の短編からなる。
この小説は、2004年に日本推理作家協会賞を受賞、2006年には本屋大賞第3位となっており、大いに売れた本だ。映画化もされている。
この本を読んだ感想は、出てくる死神が一般にイメージするものとは大いにズレていて、このズレが面白さの基になっている、ということだ。だから、死神がどんな人物として描かれているかを意識して本書を読むと一層面白い。
一般に死神は、人間に死を与える恐ろしいものというイメージがある。人間にとって、死神に出会うのは厄災であり、理不尽な死を与えられる。
一方、本書の死神は、人間に対しては超越者であり、人に対して愛着や憎しみなど何の感情も持たない。ただ仕事(本書の中で死神は仕事をしている!)のために、人間と関わる。まるでサラリーマンのように。
私は、人間の死についてさほど興味がない。(中略)
人の死には意味がなく、価値もない。つまり逆に考えれば、誰の死も等価値だということになる。だから私には、どの人間がいつ死のうが関係なかった。けれど、それにもかかわらず私は今日も、人の死を見定めるためにわざわざ出向いている。
なぜか?仕事だからだ。(中略)
さっさと終わらせたいものだ。毎度のことながら思う。やるべきことはやるが、余計なことはやらない。仕事だからだ。
主人公の死神の仕事は、死神界の調査部から指定された人間を、死に適しているか調査・判定すること。もっとも、”人の死には意味がない” と考える死神にとって、人の死の判定は「精度」を必要とする仕事ではない。それでも主人公は、真面目に対象の人間を調査する。
その調査のために交わされる人間と死神の会話の滑稽さが本書の面白さだ。例えば、以下のように。このようなやりとりが本書のあちらこちらにある。
「最近、雨が多いですね」
「俺が、仕事をするといつも降るんだ」私は打ち明ける。
「雨男なんですね」と彼女は微笑んだが、(中略)
長年の疑問が頭に浮かんだ「雪男というのもそれか」
「え?」
「何かするたびに、天気が雪になる男のことか?」
「でも、甘く見てると意外に、吹雪、長引くかもしれねえよな」英一がぼそっと言う。
「甘い?吹雪に味があるんですか?」と私は感じた疑問を口にした。
まとめ
「死神の精度」は、人の死に関心のない死神が、調査のために人と関わる物語だ。人間にとっては超越者である死神も、死神界では下っ端サラリーマンのように描かれている。人に興味がないからこそ生じる、死神と人間との会話が滑稽さが本書の魅力である。
おまけ
死神が仕事をするとき、いつも雨が降り、晴れることは無い。ところが、最後の短編「死神対老女」では、初めて死神は晴天を見ることになる。
それはなぜか? 答えは示されていないので、様々な解釈が可能だ。
私は、「死神対老女」では、死神が仕事をしていないことの暗喩だと思っている。老女が次のように言うことから、調査の結論を出したのは死神ではなく老女だと思える。
「わたしは、すごく大切なことを知ってるから」
「それは何だ」
「ひとはみんな死ぬんだよね」
「当たり前だ」
「あんたには当たり前でも、わたしはこれを実感するために、七十年もかかっているんだってば」