概説
伊坂幸太郎の小説「ガソリン生活」は、車同士が会話するというファンタジーと、女優の事故死や犯罪集団に巻き込まれる家族の人間社会のサスペンスが融合した小説です。
本書に登場する車たちは個性があり、しかも善良。緑のデミオはとても純朴、白のカローラGTは教師のように思慮深い。ヴォクシー、ヴィッツ等々も登場するが、そのどれもが持ち主の家族を愛しています。
これらの車同士の会話は楽しそう。例えば、次のデミオとヴィッツのファミリーレストランでの会話のように。
「やあデミオ」と話しかけてきたのは、右隣のヴィッツだった。(中略)「やあヴィッツ」と僕も挨拶をする。「ここは良く来るのかい?」
「時々だ。うちの持ち主の瑠奈さんが、ここで働いているからね」と言う。
「ああ、店員さんのほうなのか」
(中略)
「予感はナビには映らないけれど。瑠奈さんは、はきはきしていて外見も悪くない。何と言っても、運転が丁寧だ。ウィンカーを出す際には優しくバーを倒すし、ハンドブレーキを引く時は穏やかにやり過ぎて、なかなか止まらないくらいだ。」
「それはむしろ危ないじゃないか。」僕は苦笑する。僕たち自家用車は、餅縫い家族について知らず知らず肩入れするものだが、このヴィッツの贔屓の具合はまた極端だった。
このように、小説の中の車は意思を持つ。ただし、(人に操作される車なので当たり前ですが)自分の意思では動くことはできず、車同士のおしゃべりで得た情報は、人間社会で起こる事件の解決には役に立たない。人間社会の事件を解決するのはあくまでも人間。
本書は、緑のデミオの視点で描かれています。人間は車の言葉を聞けないが、車は人間の言葉を理解し、人間から聞いた情報と車同士のおしゃべりから得た情報を使って、ストーリは進む。
この人間以外の視点で小説を描くという手法は珍しくはありません、例えば夏目漱石の「吾輩は猫である」は、猫の視点で小説が描かれています。しかし、この小説の車の視点を使うというアイデアは、3つの点で優れていると思う。一つ目は、人は車に感情移入しやすいこと、二つ目は、車には車種ごとのキャラクター(ファミリーカー、高級車、スポーツカー等々の属性から類推する個性)があること、三つ目は、人は車の中ではプライベートな会話をするため、込み入った情報を車が聴くという設定にうってつけの場所であるため。
楽しみたい部分
さて、伊坂幸太郎の小説の特徴は、伏線が小説の各所に仕込まれていて回収されていくことと、登場人物の洒落た会話がなされていくことでしょう。そこで、夫々について紹介していきます。
ストーリーや登場人物の心理を理解する上で大切だと思う伏線を紹介します。まずは、歯医者で丹羽のカルテが他人のものと入れ替わっていたことに関する部分。
「ひどい歯医者だね。情報、入れ代わっちゃうなんてさ」亨が指摘する。
「それは本当に、うっかりミスだったんだろうけど、大きな事故にならなくて何よりで。ただ、あの歯医者さんで困るのはそんなことじゃなくて」
「何かあったんですか」良夫が気にかける。
荒木翠は首を横に振るだけだった
次に、荒木翠の死亡事故については無神経な態度をとると、玉田が亨に指摘された部分。
玉田健吾は、「そんなこと言われてもな。困るんだよ」とため息をついた。「だいたい、俺は荒木翠にはそれほど同情していねし」
さらに、登場人物を理解するために大切な部分。
荒木翠の言う丹羽の性格。
「世間知らずで苦労知らずで、パソコンいじってばかりの引きこもりね」と愉快気に言った。
アテンザの言うトガシの性格。
「トガシは、自分のことしか考えていない。自分の信号は全部、青のなるべきだと思っているような人間だから。
デミオの言う荒木誠人(荒木翠の夫)の性格。
一方、荒木翠の旦那はそれとはまた違うようだ。自分の信号は青だと確信している。自分が正しいと信じて疑う余地がない。
次に、是非楽しみたい洒落た会話を紹介する。
Twitterで私生活を発信している妹まどかに対して、良夫と亨の会話。
「否定的なことを言うつもりはないんだけれどな、自分の行動をそこまで細かく発信して、何の意味があるんだ」と否定的なことを口にした。
「まあね。でも、昔から、そういう記録が残っていたら面白かったかもしれないよ」
「昔って、戦後とか?」
まどかが自分の恋人である江口が面倒に巻き込まれていることを、家族に話したあとまどかも面倒に巻き込まれるのではないかと心配する母 郁子との会話。
「お母さん、江口さんは私を守ろうとしてくれているの」
「守れなかったらどうするのよ。あのね、サッカーのゴールキーパーなんて、みんな、ゴールを守るつもりでいるのよ。なのに、試合では何点も取られちゃうんだから。守ろうと思って、守れるんだったら世話無いんだから」
札幌ナンバーと鹿児島ナンバーのシトロエンとアルファロメオに対して、デミオとヴィッツの会話。
「二台ともそんなに遠くから来たんだね。北海道からと九州からだなんて」北は言わずにいられない。
(中略)
「まさにあの、なぞなぞ通りだ」ヴィッツが浮き立つ声を上げる。
「なぞなぞ?」
「来たから車が五百台、時速五十キロでで出発しました。南から車が五百台、やっぱり時速五十キロで出発しました。さて、どの場所で出会うでしょうか。というクイズ」
まとめ
伊坂幸太郎の「ガソリン生活」は、車同士がおしゃべりをするファンタジーと人間社会の事件が融合した小説です。
車の視点でストーリを進めるという設定が面白い。また、車同士のおしゃべりは楽しそうで、平和な気分になります。
小説自体は、軽い文体でスラスラと読めますが、各所に仕込まれた伏線を探したり、登場人物の洒落た会話を味わったりしながら読むと、一層楽しめます。