kotaの雑記帳

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小説「風が強く吹いている」(三浦しおん)の感想(レビュー):勝利だけでなく目指すものがある

 

 三浦しおんの小説「風が強く吹いている」を読んだ。その感想を書く。

 

 著者の三浦しおんは、一般には知られていない専門家の生活を丁寧に描く作家だ。例えば、植物学の研究者の日常を丹念に描いた「愛なき世界」、13年以上の歳月をかけて一冊の辞書を編纂する男を描いた「舟を編む」、林業を生業とする山村の人々が自然への敬意を忘れない様子を描く「神去なぁなぁ村の日常」。

 この「風が強く吹いている」は、大学駅伝を目指す陸上部員の生活を描いている。

 

 あらすじは、素人が箱根駅伝を目指すお話。箱根駅伝を走りたいと強く願う灰二(はいじ)は、天才ランナー走(かける)と出会って、寮の仲間を半ば強引に長距離走に引き込む。

 こう書くと、ひょんなことから競技を始めることになった若者が、次第に熱中して最後に勝利する、そんなストーリーをイメージするかもしれない。例えば、シンクロナイズドスイミングの「ウォーターボーイズ」、ビッグバンドジャズの「スウィングガールズ」、チアダンスの「チアダン」のような。

 確かにTVアニメ「風が強く吹いている」は、そのような青春賛歌にストーリーを寄せている。しかし、原作の小説「風が強く吹いている」は、もっと奥の深いものがある。

 

 なんのために走るのか?何を求めて走るのか? これがストーリーを通して著者が投げかける問いだ。三浦しおんは、この小説を書くにあたって、大東文化大学陸上部、法政大学陸上部など、現場を取材している。おそらく、陸上部員たちにもこの問いを投げかけたことだろう。

 

 速く走ることに意味があるのか? 箱根駅伝で優勝することに意味があるのか?小説を通してこの問いが繰り返される。

 

 素人集団を率いる灰二は、箱根駅伝でシード権獲得を目指す。なぜ? 部員のいない灰二たちは箱根駅伝に参加する人数が来年は揃わない、来年のシード権を目指す意味はどこにあるのだろう?

「どんなに練習したって、寛政は十人しかいないじゃないか。

(中略)

本戦で十位以内に入ってシード校になれたとしても、四年生は卒業だろう?来年度はどうするんだ?」

ライバル校の榊は灰二たちをこうからかう。

 

「頂点を見せてあげるよ。いや一緒に味わうんだ。楽しみにしてろ」

灰二は一緒に走る仲間にこう言う。優勝を目指さない灰二の言う「頂点」とは何だろうか?

 

 ヒントは、六道大のエース藤岡が示している。

 予選会で、外国人選手の速さを知った観客が言う、「また黒人選手がいる。ずりぃよなぁ、留学生を入れるのは」「あんなのがゴロゴロいたら、日本人選手はかないっこないもんな」と。これに対して、藤岡は言う。

「ああいう輩は、気にしないほうがいい。ばかげた意見だ」

(中略)

「ばかげた部分は、少なくとも二つある。ひとつは、日本人選手が太刀打ちできないから留学生をチームに入れるのはずるい、という理屈。(略)」

「彼らのもうひとつの勘違いは、勝てばいいと思っているところだ。」

小説の中では、勝つ以外に追い求めるものについてさらに語っている。

 

 三浦しおんが陸上部員の取材を通して感じたのは、勝つこと以外に目標や求めるものが、走者にはあるということだろう。それは、それぞれが自分の中に持っているもので、同じものを目指しているとは限らない。

 

 さて、灰二が走に言う「いまのきみ自身が走るんだ。振り向くな。もっと強くなれ」と。この「強い」という言葉、今年の箱根駅伝で選手が使っていたことが印象深い。2区で一位の駒沢大の選手が「昨年に比べ自分自身強くなることができた。また、チームには強い選手がたくさんいる」と言っていた。彼が、速いと強いをどう使い分けているのかぜひ知りたいと思った。

 

まとめ

 三浦しおんは、その世界に深く浸っている人々を丹念に描く作家だ。「風が強く吹いている」は、箱根駅伝を目指す陸上部員を描いている。

 勝利や速さを目指しているように思える陸上選手だが、実は、勝利とは別に目指しているものがある、という一般には知られていないことを描いている。

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