すごく面白かったので、メモを残します。
マスメディアは権力である。以下、コトバンクより。
マスメディアの持つ権力を指す言葉。大衆が大きな部分を占める社会において,その大衆に対して大量の情報を迅速に流布する媒体がマスメディアである。マスメディアは,国民の政治参加を建前とする大衆民主政治においては,政治情報の多方向的な伝達者として唯一ではないが,不可欠の地位を占めている。われわれが受け取る政治の情報のほとんどはマスメディアに依存している。これが,立法・行政・司法の3つの権力と並んで「第4の権力」としばしば呼ばれるゆえんである。
マスメディアは、市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」を装う。
メディアは弱者の側に立つと称して勝手に代弁し、加害者=悪を糾弾する。現実世界での金や地位、支配力などの物理的な強弱はともかくも、インターネットも含めたメディアの空間では、弱者こそが最も「力」が強い。なぜなら弱者を正面切って批判するのは難しく、非難を浴びやすいからだ。(中略)だから新聞やテレビは過去から現在にいたるまで、「市民目線で」「庶民の目から見れば」などの言い回しを好む。市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うことは、本来は権力のひとつであるマスメディアにとって、みずからが批判の刃にさらされる危険性を減らすことができ、実に便利な「戦術」だったということになる。
エンターティンメントとしての、強者vs弱者のマスコミ報道
「水戸黄門」のような悪を糾弾するドラマを求めるエンタメ性が、問題解決からますますメディアを遠ざけていったのだ。
そして、ずっと悪を探し続ける。
加えてこのように悪を糾弾し続ける姿勢は、加速しやすい。悪がいなくなった後も、いつまでも悪を探してしまう。なぜなら「悪と対峙し、弱者を代弁する自分こそが善である」というマイノリティ憑依の構図は、「加害者対被害者」「悪対善」という単純な二項対立の中でしか存在し得ないからだ。つまり悪がいなくなったとたんにこの構図は崩れてしまい、批判側はマイノリティ憑依のポーズをとれなくなってしまう。それを防ぐために、批判側は無意識のうちに新たな悪を探し求めてしまう。