ニーチェは言った、悪とは弱者の自己正当化であると。
論理的な議論において、それは詭弁だと非難することは所詮弱者の泣きごとである。これが本書の立ち位置だ。
著者の香西秀信は修辞学(演説・議論で勝つ表現法の研究)の第一人者。ちなみに彼の著書「反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書)」は、議論に勝つ技術を学ぶ上での名著だ。
一般に、論理的であることを尊ぶ風潮がある。対等な議論がしたいとか言っちゃう人とか、詭弁を使う相手を非難する人などである。
こういった人は、議論の前提を間違えている。議論は公平にできるし、論理的でないといけないと思っている。実際には、対等な立場の議論など無いというのに。
議論の目的は「説得」である。弱者が強者を説得するために、詭弁を駆使するのは当然である、これが著者の主張である。
そして、強者を「説得」するための詭弁を、本書の中で紹介している。
日常的ない議論の場で、我々は、しばしば相手に問い詰められ、絶句してしまうことがある。が、これは必ずしも相手の主張が正しいことを意味しない。多くは、その問いが相手にとって都合のいい言葉で組み立てられていることを失念し、馬鹿正直に答えてしまうことからくるのである。
これは、「問いの詭弁」の一節である。
2004年4月にイラクで3人の日本人が武装した集団に拉致され人質になった事件を例として取り挙げている。その集団は、3人の命と引き換えに、自衛隊のイラクからの撤退を要求したが、当然ながら日本政府はこれを拒否した。それに対し、人質の家族の一人が、次のように問いかけた。
国家のメンツを守ることと、国民の生命を守ることのどちらが大切なのか?
この問いかけに日本政府は真正面から答えることができない。代わりに別の問いかけをすべきだ。
テロリストの卑劣な要求に屈しないことと、屈することの、どちらが正しいのか?
議論とは、このように詭弁の応酬である。
本書では、多くの詭弁を紹介し、説得に使う要点を説明している。
まとめ
対等な議論など存在しない、詭弁だという非難は所詮弱者の泣き言だ。著者の主張は私には衝撃でした。確かに、教師・上司・客などを相手に話をするとき、その相手は強者であり、議論の目的は「説得」である。
この本で「説得」のテクニックを学びました。
追記
2017年7月20日
偶然、典型的な詭弁の実例を見つけました。
不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している
— 為末 大 (@daijapan) 2017年7月19日
上記のツイートに対して、”オリンピック関連で金を出してもらったお前が言うな”、という趣旨のリツイートが多数されました。
これは、「人に訴える議論」という詭弁です。
例えばAという人物の議論に対して、その議論の妥当性を問うのではなく、Aの人物を否定することでその議論を葬り去ろうとする詭弁である。
論理的には、議論とはその意見に対してなされるべきであり、その意見の主の特性を問題にしてはならない。上の例の場合、(為末大さんがオリンピックに出ており)その費用の一部に国税が充てられたことと、保険料の負担の問題は別として扱うのが論理的な態度です(もっとも、上のリツイートしている人たちの発言の目的は、良く分かりませんが)。