kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



なぜこんなに生きにくいのか(南直哉):自分を苦しめる思い込みに気づくため読んでおきたい本

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  思い込みをしない。誰でも知っている言葉ですが、実行するのは難しい。思い込みをしないためには、自分とは別の考え方を知ることです。

 オンリーワンになることはナンバーワンになることよりもキツイなど、この本には思い込みをしないためのヒントが記されている。

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

 

 

  気持ちがしんどい時ってありますよね。他人から言われたことが繰り返し頭に浮かんできたり、思い出すと緊張するようなときが。

  失敗して誰かに「お前には価値がない」と言われると、結構へこむものです。でも、何故へこむのでしょうね?「いやな気分よさようなら」という本は、思考の癖が原因だと言います。思考の癖というのは、例えば失敗したという出来事に対して良い・悪いを反射的に判断することを言います。つまり思い込みです。就職活動に失敗した大学生が生きていくのが嫌になるのも、思い込みのせいです。

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  あなたは友人から「自分には生きる価値がない」と相談されたらどうしますか?「そんなことはない、あなたには価値がある。」「良いところが沢山ある」と励ますのではないでしょうか?

  それでは、あなたも友人同様「価値がない人は生きてはいけない」という思い込みに囚われていることになります。「価値がなくても生きていていい」とその思い込みから抜けると気持ちがぐっと楽になります。

 

 生きにくいと感じている人は、好きな職業についていないか、その職業が世間の役に立つと思えていないつまり褒められないためでしょう。ここでの思い込みは、「普通は好きな職業につけるものだ」そして「仕事というものは世間の役に立つものだ」です。しかし好きな職業につける人などほんの一握り。褒められる仕事というのもわずかなものでしょう。こういった思い込みに囚われる人は、やり甲斐を感じません。

 

  別の思い込みとして「個性的であるのがいい」という話が記されています。

  「あなたの個性を大切にして下さい」こういったメッセージが世の中に溢れています。そのせいで個性的な自分、他人とは違う自分になろうとします。同時に、どんな個性に価値があるのか、成功するためには何が必要なのか、と考えてしまうでしょう。つまり、「あなたの個性を大事にして下さい」とは、価値ある人になって下さいと同じ意味です。

  ナンバーワンを目指すのは分かりやすい。他人と何で競っているか基準があるからです。それが試験の点数、年収、友達の数など、基準があればそれに向かって努力することができます。しかし、「個性的であれ」という時、どこに向かって頑張ればいいのかわかりません。どんな個性でも良いのではなく、価値ある個性が要求されています。これはキツイ。オンリーワンとはそういうことです。

 

  「本当の自分」とは何か? あるいは今の自分は「本当の自分」ではない、と考えたことはありませんか?

  過去に失敗があり現在に不満があるとき、今の自分は「本当の自分」ではないと考えがちです。受験に失敗した、気にいる会社に就職できなかったなど、現在の不満を過去の失敗のせいだと考えます。これも思い込みです。「本当の自分」もウソの自分もなく、今の自分が全てです。あのときこうしていればなどと考えても仕方なく、今の自分から出発するしかありません。

 

本書の大事な文章

  本書を読んで大事だと思った文章をメモとして残します。

 

第1章 なぜこんなに生きにくいのか

  私が思うのは、生きにくいと感じていない人、もっと言うと、生きがいを感じている人というのは、やりたいと思っていたことをやっている -例えば職業人であれば、好きな仕事に就いていて、なおかつ、その仕事は世の中で役になっていると思っている人ではないでしょうか。子供であれば、好きなことをやって、なおかつ、そのことでほめられるということです。

(中略)

  簡単に言えば、好きなことをやると同時に、それが意味のあること、まわりから認められほめられるようなことだと思っている人が、生きがいを感じるのだと思うのです。たとえ明確には思っていなくても、心のどこかで、自分のやっていることは必要なはずだ、いいことなのだと思っている。これが一番重要なことではないでしょうか。

(中略)

要は、誰かに認められたい、だけど現実はそうなっていない、というところに一番の問題があるのです。

 

この文章を読んでいて、他人に認められることと自分に価値があると思う気持ちが強く結びついていることが分かります。私達はそう思い込んでいますが、よく考えると他人はコントロールできませんから、認めてくれる人もいれば認めてくれない人の両方がいる筈です。私達は誰に認められたいのでしょうね?

 

第2章「あの世」はあるのか、ないのか

  「誕生」や「死」に確かなものがあると思うから、人は苦しみます。しかし、われわれが自ら経験できるのは「生まれたあと」から「死ぬ間際」までのせいだけです。そうであるなら、「わからない」ことは「わからないまま」に受け入れる、つまり「確かなものはない」と覚悟を決めた上で、どうするかを考えるのも、私は一つの方法だと思うのです。

 

  「あの世」はあるのかないのかわからない、これが著者の態度です。誰もどうやって生まれてきたか「誕生」を覚えていない、死んだ後のことを語れる人は誰もいない。それ故、生まれる前の世界、死んだ後の世界を誰も確かめようがない。大切なのはあるのか無いのか分からない、その前提で態度を決めていくしかない。

 

第3章「本当の自分」はどこにいるのか

「本当の自分」というのは、「課せられた自分」に対する違和感が生み出す幻想でしかありません。」

 

  社会が与える「自己」の衣装は、次から次へと変わっていきます。「子供らしく」「中学生らしく」「大学生らしく」「社会人らしく」というように。いつまで経っても自己は課せられ続けられるから、どこか別のところに「本当の自己」があるように錯覚に陥ってしまいます。しかし、それは課せられたじこにたいする違和感が生み出す幻想なのです。

 

これらの文章を読むと、周りが自分にこうあれというメッセージがあり、そのメッセージに対して違和感を感じて、そのメッセージとは違う自分がどこかにいると感じるんだと納得する。

 

「自分とは何か」といった実存に関わる問いについても同様のことが言えます。それにがっぷり四つに組もうとするとうまくいきません。自分なりに応答の仕方を工夫し、「やり過ごす」ことが肝要なのです。

 

  しかし、「自分」というのが自分の手におえるものだと思っていること自体が大きな誤解です。

 

「自分とは何か」といった問いは、手に負えないものだ。そういった手に負えない問いはまともに取り合わず「やり過ごす」ことが大切だというのは、目から鱗です。

 

自分に価値があるなどと思わない方がいい

 

自分は何が好きで、何をすれば人の役に立てるのか ー これが結果として個性となるのです。

 

「自分とは何か」という問いは、自分の価値は何か?という問いに続いており、そんなものは自分の手に負えない。そんな問いを考えるよりも、何をすれば人の役に立てるかを考えた方が良い。

 

第4章「いま、ここ」に生きる意味とは

しかし、私が仏教から学んだのは、人間というのは生きていれば楽しくて嬉しくて結構なことよりも、苦しくて切なくて悲しいことの方が多い、そう考えることがまず大前提なのだということです。

 

  この言葉を受け入れるのは勇気がいります。

  普通に過ごしていれば、人生とは楽しいものだと私達は思い込んでいますが、人生とは、デフォルトは苦しくて切なくて悲しいものだ。楽しくて嬉しかったりすることがあればそれはレアなことだということです。

 

人生に「正解」などない

 

つまり、「価値」というのは、選択でしかないということです。ある選択に賭けるという根拠なき決断に価値が生まれるのです。生きていた方がいいなどというのは思い込みにすぎないかもしれませんが、その思い込みに賭けるかどうかなのです。

 

  人間がそれなりに自分の人生を納得して生きていくためには、どこかで生きることに覚悟を決める必要があると思います。自分であることに覚悟を決める、決断とともに引き受ける、という態度がいるのです。

 

 人は何かを決める時、正解はどっちなのかを考えます。この人と結婚した方がいいのか?この会社に就職するのは正解なのか?などと。

 この前提に「正解」があるという思い込みがあります。しかし、そもそも「正解」など最初からないのです。

  何かを決める時には根拠などなく、覚悟しかない。その覚悟とは結果がどうあれその決断を引き受けるという覚悟をするしかないのです。

 

第5章 親と子の深くて苦しい絆

省略

 

第6章 人間関係はなぜ悩ましいか

  いわゆる恋愛などは、一種の取引でしょう。人間の世界で「愛する」という関係は、根底に「愛されたい」という思いが決定的にあるのです。「愛した以上は愛されたい」と思うのであれば、それは取引です。片思いだけで一生続く愛など、現実にはほとんどありません。「愛」と言われる感情の根本には、どこか支配と取引があるのです。

 

  愛を取引と言われるとビックリしますが、愛されたいと思う気持ちがある以上取引なのでしょう。取引なのですからそれが叶うかどうかは相手次第です。自分の気持ちが相手次第となると、悩ましい関係になってしまうでしょう。

 

  それでは、「敬う」「敬意」というのは具体的にどういうことか。愛情と決定的に違うのは、まず相手をコントロールしたいという感情が一切ない、ということです。

(中略)

  しかし、まともに人から敬われないのだとすれば、それは自分も人を敬わないからでしょう。人を敬わない人は、自分も敬われません。

(中略)

「自分」の価値うんぬんを考える前に、まず自分が人に対して、まわりとの関係において、相手を敬う気持ちがあるかを考える必要があるのです。

(中略)

  人に敬ってもらうのは、職業や持ち物などではありません。職業を敬ってもらったところで失業したらおしまいです。頼りになるのは持ち物や職業ではなく、敬意の伴う人との関係、それに尽きるのではないでしょうか。

 

ここでの「敬う」という言葉は一般に言う尊敬するとは異なるように感じます。

 

自分には他者のことは「わからない」、ということがわかっていないといけないでしょう。わからないからこそ、想像するのです。わからないから無視するのではなく、わからないから、わかろうとするのです。全部わかることはできなくても、なにかはわかるだろう、わかりたい、と思うこと。

(中略)

  まず、そこに人がいるということの意味を想像できること。ある人間がそこにいるということ自体が大事件なのだとそうぞうできること。それでいて、根本的にその人間を「わからない」と思うことです。

(中略)

 とにかく、自分とは違う、「わからない」他者として、その人間がそこにいるということを認める。自分の思っている人とは違うかもしれない、というところをどこかで残しながら付き合う。みんなもいろいろあって大変なのだろうな、苦労しているんだろうな、と想像することができるかどうかです。

 

敬うとはこういうことだと説明されています。仏教で言う慈悲と同じです。私にとっては、「そこに人がいるということの意味を想像」するのが一番キツイように思います。「なんのためにあの人はいるんだろうね?」こういう問いは相手の価値を計っています。価値があるとか無いとかではなくて、そこに人がいる意味を想像するということでしょう。

 

第7章困難な時代をどう生き抜くか

省略

 

第8章 生きるテクニックとしての仏教

省略