kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



心はなぜ不自由なのか

 人は不自由である。自分が思うよりもずっと不自由なのだ。
 「心はなぜ不自由なのか」(浜田寿美男PHP新書)を読むと、自分が如何に不自由であるかを実感する。

 不自由とは何か? 不自由とは、選ぶことのできる選択肢のないことだ。"選べない"には、二つの視点がある。一つは”天上の視点・神の視点”である。例えば、地震津波のような天災に遭ったとき、「あのとき地震が起こらなければ」と考えても、そこには選択の余地はない。もう一つの視点は「生身の視点」である。例えば、学校を卒業した後に自由に暮らすという選択は可能だが、社会的にそんな選択はできない。

 
 人が自由なのは上の表の「相対的自由」の部分だけである。人は、絶対的不自由な領域もつい自由であると思ったり、相対的不自由な領域も自由であると考えることがある。しかしながら、それは間違いである。
 本書では、このなかで相対的不自由の領域について、二つの面から考察している。
 一つ目は、刑事事件が発生した際に、無実の容疑者がウソの自白(自分が犯人ではないのに、犯人だと言ってしまう)をする事象を通して考察している。
 そもそも容疑者が取調室で、自供するかどうかは、上の表でいう「相対的自由」の領域にあると考えがちである。しかしながら、刑事は、容疑者を真犯人だと確信して取り調べをしている。このような状況で、容疑者は「相対的不自由」な状態に置かれる。このため、無実の容疑者であっても、その「相対的不自由」故に、ウソの自供を行う。本書では、事例を用いて、これを考察している。
 二つ目は、羞恥心という心理状態を通して考察している。
 羞恥心とは、以下のように定義できる。

 人が内密にしたいと思っている自分の劣等部分(弱さ、醜さ、汚れ、欠点)が人前に露呈したとき、またそう予想した時に感じる感情である。

この定義が意味を成すためには、その背後にいくつかの条件が成立している必要がある。

  1. 人はなぜ自分の特定部位について、優秀だとか劣等だとか思ってしまうのか。
  2. 人はなぜ他者からの評価を気にするのか。なぜ自分の劣等部位が人前にさらされるのを嫌うのか。
  3. 人は他者からの評価を直接見たり、聞いたりできる以前の所で、羞恥心を感じてしまう。何故か。

上の一つ目は、社会的な価値観に縛られ、その価値観から見て劣っている部位を、劣等だと思ってしまう。すなわち、社会的な価値観に人は縛られてしまうことが分かる。二つ目について、もし完全な自己肯定の状態であれば他人の評価を気にすることは無い筈である。また、完全な自己否定の状態であっても、人は他者の評価を気にすることは無い。このことから、人は、自己肯定と自己否定の間で揺れ動いている状態であることが分かる。三つ目については、良く考える必要があろう。
 なぜ、自分の劣等部位の評価を聞いたりする以前に(劣等部位が他人に露呈していると思うだけで)、人は羞恥心を感じるのだろうか。本書では、身障者(四肢欠損)の女性が、子供のころからつけていた義手を、ある日思い立ってプールで外してみようとしたという実例をもって考察している。彼女は、義手を外す決心をし、プールサイドに出ようとする。しかし、プールサイドで全身がカチカチに固まって動くことができなくなる。彼女は、義手を外したわけではない。外そうと思っただけでこれほどまでにストレスを感じたのはなぜか。著者は、人はその中に他人がいる(内なる他人)と説明する。
 人間は、他人と会話したり一緒に生活していく中で、個々の他人のイメージを自分の中で作り出し、根付かせる。これが「内なる他人」である。この他人のイメージを使って、いわゆる空気を読むわけだ。この「内なる他人」からの反応を感じるため、人は自分の劣等部位が他人に露呈していると思うだけで、羞恥心を感じる*1
 この「内なる他人」を作り上げる過程には、自分だけではなく、両親や友人など周囲の人間も、影響を与える。上の女性の場合、その両親が大きく影響している。彼女は子供のころから外出時には、両親により義手を付けるよう強く勧められていた。この両親の態度が、義手なしで他人に会うと他人が嫌悪するという「内なる他人」を創ったといえよう。
 そして、人は、この「内なる他人」によって縛られている。

感想

 羞恥心に対して、「人は他者からの評価を直接見たり、聞いたりできる以前の所で、羞恥心を感じてしまう。何故か。」という問いを発した点において、本書は秀逸である。当たり前すぎて疑うこともしなかったが、劣等部位が他人に露呈すると想像すると恥ずかしい、これは不思議な現象である。また、「内なる他人」は、羞恥心以外にも虚栄心や怒り*2など様々な場面で我々の心理に影響を与えている。
 この「内なる他人」は、「四つの約束」でいう「飼いならしのプロセス」によって作り上げられると言えよう。また、「いやな気分よさようなら」でいう「自動思考」とは、「内なる他人」の考えであろう。
 「飼いならしのプロセス」から逃れるために、「四つの約束」では、「正しい言葉を使う」「個人的なこととしてとらえない」「思い込みをしない」「ベストを尽くす」というトレーニングを勧めている。ここで「四つの約束」を読んだだけでは「正しい言葉を使う」というのが分かりづらい。しかしながら、本書の「内なる他人」と合わせて考えれば、「正しい言葉を使う」とはどういうことかわかる。自分が喋った言葉を「内なる他人」が話したとき、自分が恥ずかしい思いをするならば、それは正しい言葉ではない。
 また「いやな気分よさようなら」では「自動思考」から逃れるために、自身の思考を書き出し、それが合理的であるか細かくチェックすることを勧めている。これを通じて「内なる他人」に気づき、その考えを変えていくのだと改めて思う。

まとめ

 人は、内なる他人に縛られ選択肢を失ない、不自由な状態にいる。頭で考える以上に、人の自由は少ない。その不自由さを認めたうえで、自分の選択できる範囲に力を注ぐことが、有意義なのだと感じる。
 また、「人は他者からの評価を直接見たり、聞いたりできる以前の所で、羞恥心を感じてしまう。何故か。」 この問いを意識することで、多少は自由に暮らせる可能性がある。

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四つの約束

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〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法

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*1:この「内なる他人」は、もしこれが無いと人は他人がぎょっとする行動を平気でとることになるため、幾分かは必要である。

*2:終わった話にいつまでも腹を立てるのは「内なる他人」のためであろう。