直木賞と本屋大賞のダブル受賞した『蜜蜂と遠雷(恩田陸)』のサイドストーリーが、この『祝祭と予感』で、6つの短編が収められている。
- 「祝祭と掃苔」:栄田亜夜とマサル、風間塵が、綿貫先生の墓前を前に風間塵の家族関係を聞き出す。
- 「獅子と芍薬」:若き日のナサニエル・シルヴァーヴァーグと三枝子の出会いの物語。
- 「袈裟と鞭撻」:課題曲「春と修羅」を菱沼忠明が作曲するに至る物語。
- 「竪琴と葦笛」:マサルが、ナサニエル・シルヴァーヴァーグに師事するに至る物語。
- 「鈴蘭と階段」:ヴィオラ奏者に転向した奏が、自分のヴィオラを手に入れるの物語。
- 「伝説と予感」:ユウジ・フォン=ホフマンが幼い風間塵と始めて会った日の物語。
このどれも『蜜蜂と遠雷』を読んだ人なら楽しめると思う。中でも「袈裟と鞭撻」は、作曲家とはどういうものかを垣間見えれて興味深い。『蜜蜂と遠雷』がピアニスト視点の小説であるが、「袈裟と鞭撻」は作曲家視点の小説であり、この新たな視点が面白い。
先生、うまく書きとめられないんです。音ははっきりとなってるですけど、音符にするとどこか違う
と訴える弟子を、菱沼は諭す。
楽譜というのは、音楽という言語の翻訳であり、そのイメージの最大公約数でしかない。演奏者はその最大公約数から作曲家が考えた元のイメージを推測するわけだが、決して外国語の翻訳が元々の意味と完全に一致することがないのと同様、作曲家のイメージと違って当然なのだ
言葉が考えを完全に表現できないように、絵が頭の中のイメージを完全に描けないように、楽譜も作曲家の頭の中の音楽を完全に表現することができない、というのは興味深い。ピアニストが楽譜通りに演奏しても、作曲家の意図した音楽になっていない。機械演奏が不完全と言われるのはこういうことなのだと、合点がいく。