kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



「夜のピクニック」(恩田陸):歩行祭という舞台設定が秀逸な本

  小説”蜜蜂と遠雷”(恩田陸)は直木賞をとり映画化もされたことで知られている。私も、”蜜蜂と遠雷”を読んで大変面白く思った。そこで、次に恩田陸の"夜のピクニック"も読んだので、その感想を記します。

 ”夜のピクニック”は、吉川英治文学新人賞本屋大賞をとっている。

 この本の舞台は、とある高校の歩行祭。晩秋に朝から夜通し次の朝まで歩き続けるというタフな行事だ(24時間歩く!)。そのタフな行事は、その高校3学年の全生徒が参加する。

 小説の中で、高校生がただひたすら夜中に歩いている。特に特別なことが起きるわけでもなく、仲の良い友人同士グループを作ってただひたすら歩きながら他愛もない話をする。他のグループから友人がやってきては別の話をしたりと、高校生らしい話題で話をするだけだ。それを飽きさせずに読ませる筆力が素晴らしい。

 

 さて、この本を読むにあたってタイトルが大切だ。”夜のピクニック”と名付けられていることから、歩行祭(24時間歩くタフな行事)をピクニックに例えている。ピクニックという言葉から想像する軽い楽しい行事と、歩行祭の共通点を探しながら読むと楽しい。

 登場人物たちは、歩行祭の道中はとても苦む。しかし、その瞬間瞬間は苦しくて道中は長いのに、後で振り返ったとき、楽しい思い出ばかり浮かんできて、その道中は一瞬で終わったかのように感じる。それは、もうすぐ終わる高校生活にも似ているし、ピクニックにも似ている。

 主要な登場人物は、西脇融と甲田貴子の二人だ。この二人の違いと共通点を考えながら読むのも面白い。自分の引け目や罪の意識ゆえに相手を憎む西脇融と、自分の罪の意識ゆえに相手を許す甲田貴子。態度は正反対なのに、根底にある精神は同じだ。その同じ精神が異なる性格・ものの見方となっている。

 そんな二人を取り囲む友人たちが良いスパイスとなって物語が進行していく。この小説では、13人以上の高校生が登場し、なかなかのスケール感だ。メモを取りながら読むと良いだろう。夫々のキャラ設定がしっかりしているので、それを意識して読むと面白い。

 

まとめ

 恩田陸の”夜のピクニック”を読んだ。面白かった。

 (1)歩行祭とは何と似ているのか、それをピクニックと呼んだ理由、(2)西脇融と甲田貴子の共通点と相違点、(3)多く登場する人物のキャラ設定。この3点を意識しながら読むと一層楽しめる。

 歩行祭という舞台設定が秀逸で、最後までしっかり読める。

 

 この小説を読みながら、私は、夜遅くまで友人とバカなことを話していた学生時代を思い出した。

 

面白いと思った表現

過ぎてしまえばい、みんなで騒いで楽しく歩いていたこと、お喋りしていたことしか思い出さないのに、それは全体のほんの一部分で、残りの大部分は、仏頂面で、足の痛みなど考えないようににしてひたすら前に進んでいたことをすっかり忘れてしまっているのだ。

前年の歩行祭について表した部分だが、こうやって読むと、歩行祭は高校生活の縮図と言えそうだ。もっと言えば人生だってこういう物だと言っているように感じる。

 

今度は明らかに潮の香りがする。

ざらざらしたしょっぱい匂いを、胸いっぱいに吸い込む。

歩いているうちに海辺に出たシーンの記述だが、海の潮の香りを「ざらざらした」「しょっぱい匂い」と表現しているのは面白い。

 

  まあ、考えてみれば毎年こうだったような。当日までは、歩きとおせるだろうかという不安にうじうじしてるんだけど、始まってみればあっというまで、心に残るのは記憶の上澄みだけ。終わってしまってからようやく、さまざまな場面の断片が少しづつ記憶の定位置に収まっていき、歩行祭全体の印象が定まるのはずっと先のことなのだ。

歩行祭の思い出について書いている部分。終わった直後に思い出すのは、”記憶の上澄みだけ”という表現が好きだ。整理されていない記憶の中で思い出しやすいことだけが思い出される、それを”上澄み”と呼んでいる。そしてさらに、場面の断片が記憶の定位置に収まっていき、終わった食後とは違った印象を最終的に持つことを表現している。

そして次のように続く。

 記憶の中で、私は、西脇融は、どんな位置に収まっているのだろうか。

歩行祭を終えて十分な時間を経た後、どんな私はどんな印象として記憶に残っているだろうか。この部分は、風情があってとても良い。結果をすぐ知りたいと思うものだが、そうではなく最終的にどう記憶に残るかを気にするなんて大人な考えである。

 

 

夜のピクニック(新潮文庫)

夜のピクニック(新潮文庫)