kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



国家、民族、ナショナリズムを知る

 国家、民族、ナショナリズム、この3つの違いが言えるだろうか。これらの言葉の意味を丁寧に考えることで見えてくるものがある。
 実は、ナショナリズムに関して定まった定義は無い。Wikipedia:ナショナリズムによると、以下のように記されている。

主要な論者のひとりであるアーネスト・ゲルナーは「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義しており、この定義が完全ではないが議論の出発点としてある程度のコンセンサスを得ている。

 大まかに言えば、国家(政治的な単位)と民族を一致させるという考え方である。では、民族とはなんだろうか。この問いのヒントが「世界史の極意」の第2章『民族問題を読み解く極意—「ナショナリズム」を歴史的にとらえる』に記されている。
 
 民族とは要するに“私たち”という意識を共有する団体である。
民族の成り立ちを考えるには2つの流派、「原書主義」と「道具主義」がある。原書主義とは、日本民族は2600年続いているとか、っというような、民族には根源となる源があるという考え方である。それに対して道具主義は、民族はエリートたちによってつくられるという考え方。つまり、国家のエリートの統治目的のために、民族がつくられるという考え方である。著者の佐藤優氏は、さらにアンダーソン、ゲルナー、スミスの3人の論者を引き合いに出して、道具主義的な解釈を進めていく。

国民というのはイメージとして心に描かれた創造の政治的共同体だということになる。つまり、日本の国民というのは、「自分たちは日本人なんだ」とイメージしている人たちの政治的共同体だということです。

つまり、民族の実態はなく、“私たち”というイメージを共有する集団だということだ。さらに、著者は次のように続ける。

スミスによれば、近代的なネイションは、必ずエトニを持っている。
(中略)
ネイションにはエトニという「歴史的な」根拠があるということ。
(中略)
エトニは、民族意識が生まれた後、「歴史的な」根拠して事後的に発見されます。発見するのは、文化のエリートです。

ここで、エトニとは、集団が共通性を持つ根拠、例えば共通の祖先・歴史・文化をもつことを示す根拠です。同じ日本語を話すというのもエトニと言える。
つまり、上は何らかの理由で”私たち“を共有する集団ができ始めると、エトニ(共通性の根拠)が後から発見されて、みんなが納得し、自分たちは同じ民族だという認識が固まるということだ。

 著者は、これら民族論を応用して、沖縄について言及する。

この選挙は、沖縄の自己決定権を主張する翁長候補と、すでに沖縄人は日本人に完全に同化したと考えている発言と行動を顕著に示している仲井眞弘多前知事との間での、沖縄の自己決定権を巡る住民投票の要素をあわせて持っていたからです。
 その結果、前述のとおり翁長氏がおよそ10万票の差をつけて当選しました。これ以上の基地負担を拒否するという沖縄人の強い意志がこの背景にはあります。
私は、ここ数年の間で、アントニー・D・スミスの言う「エトニ」が沖縄の中で強化されているとみています。もはや、沖縄(琉球)民族というネイション形成の初期段階に入っていると見た方がいいかもしれません。
(中略)
 しかも基地問題、米軍輸送機MV22オスプレイの配置問題を通じて、沖縄人hあ、本土の沖縄に対する差別や無関心をますます強く自覚するようになってきています。

つまり、沖縄の人々は基地問題等により本土から差別されていると感じており、それゆえ“私たちは日本人”であるという意識を持たなくなってきている。やはり“私たちは日本の本土の人々とは異なる沖縄人”という意識が芽生えてきたところに、エトニ、つまり琉球王朝に源をもつ琉球人であるという根拠が共有され、日本人とは異なる沖縄(琉球)人という民族が形成されつつある。
 ウクライナにおける武力衝突は、一つのウクライナという国の中に二つの民族意識が同居していたため起こった。つまり、一つは親ロシア派、もう一つが反ロシア派であるというように二つに分かれ、エトニは後から発見された。
 このウクライナと同じ構図が沖縄と日本本土にあるのではないかと、警鐘を鳴らしている。

世界史の極意 (NHK出版新書)

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