新海誠監督の新作映画「すずめの戸締り」を観てきました。
映画「君の名は」は、隕石が落ちてくる話だった。その次の「天気の子」は大雨による水害の話だった。では、こんどの「すずめの戸締り」は? と考えながら観ていると、地震の話だった。日本地震巡りという感じかな。
ストーリーに起伏が少なく、たぶんファスト映画で観てもつまらない印象を受けるんだろうなぁと思う。音楽に例えれば、印象的なサビが無い、そんな感じ。サビがなければ悪い音楽という訳ではない(例えばバラードではサビを弱くしていたりする)。それと同じで、起伏のないストーリの映画も悪い訳ではない。もっと全体的を俯瞰してどう感じるか?そういう映画なのだと思う。
災いを封じる要石が映画の中で出てくる。神様が要石となっていたのだが、解放された神様は、要石の役割をある人間に移してしまう。神様は要石としてのお役目から解放され、その人間が要石となって災いを封じることになる。
これって、ひどい話だと思わないかい?普通に暮らしていた人間が、石に変えられてしまうのだから。
要石の役割を受け持つのは、貧乏くじを引いたことになるのか?それとも、世界を災いから救う光栄ある名誉なのか?答えは、その両方なのだろう。みんなのために、誰かが人と違う役割を担う、そのことを周囲の人が称えてくれるか知らないままでいるのかの差でしかない。
学生から社会人になると、社会は不公平であることを実感するだろう。勝ち組と負け組を分けるのは、努力ではなくて運であることが論文でも示されている。
そんな社会の不公平さを、要石を通して示しているように感じる。
この映画の中で印象的な点は、芹沢朋也の前向きさと親切さと囚われのなさだ。主人公のすずめに対して、自らは何も与えようとはしないサラッとしない態度なのに、すずめが望めばかなりの無理をしてあげる。サラッとした親切。
このサラッとした親切を、映画の所々でみつけることができる。愛媛の海部千果とその家族、神戸の二ノ宮ルミなど。自らは押し付けない親切さを持っている。
こういう親切さを、実のところ日本人はあまり持っていないことが、社会学的にも知られている。日本人は、You and Weの文化だ。自分のコミュニティのメンバーに対しては空気を読み親切にするが、メンバー外に対しては冷淡だ(ちなみに、アメリカ人は見知らぬ人にもそれなりに親切にする)。
映画を通して、サラッとした親切に違和感を感じながらも、震災時に助け合う被災地の様子を思い出す。
最後に、忘れていけないのが、すずめの育ての親の岩戸環の言葉だ。映画後半で、岩戸環はすずめに「あんたなかんか引き取るんじゃなかった。姉さんのお金があったって釣り合わない。こぶ付きじゃ婚活だってうまくいかない」とひどい言葉をぶつける。かなりひどいこんな言葉を新海監督はなぜ言わせたのだろうか?
岩戸環はすずめに言う、「言ったことを思ったことがないとは言わない。でも、それだけじゃないのよ」と。このフレーズはとても印象的だった。人というのは、そういうものだからだ。善と悪が入り混じって人は生きている。あるときは善が表に出て、別のときは悪が前にでる。そういう複雑な人間を相手に人は生きていくということなのだろう。
さて、”『すずめの戸締り』企画書前文”にはこうある。
本件は、過疎化や災害により増え続ける日本の廃墟を舞台に、喪失の記憶を忘却した少女を、椅子に閉じ込められてしまった青年のそれぞれの解放と成長の旅を描く、劇場用アニメーション映画である。
(中略)
「自分が閉じ込められ不自由になってしまった」という感覚を大切に描きたい。「不自由な時代、不自由な場所(国)に閉じ込められている」という僕たちの生活感覚と、草太の境遇が響きあえば良いと思う。
つまり、もし君に不自由さを感じていてそこから抜け出せない感覚があるなら、椅子にされた草太の気持ちが分かるのかもしれませんね。