kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



個性的であることが生き易い訳ではない

 「誰が・どこまで「個性」を求めているのか」(シロクマの屑籠)
 このエントリでは、「個性」的であることは生き易い訳ではない、と言っているように思う。
 
 このエントリを読んで面白いと思うのは、”個性とは何か?”を真面目に考えることを、読者に強いることだ。特に、個性には環境とのマッチングが必要だとする点は面白い。

個性の強い人間は個性が強いぶん、特別な環境や特別な状況で本領を発揮するのであって、どこに行っても適応できるような人間は個性的ではないはずだ。

このように、個性をとある環境への適性とするならば、尖った個性とは尖った環境にのみ適応できる適性となる。車で例えれば、レーシングコースでは爆速のF1カーのようなものだろう。整備されたレーシングコースに合わせたため、少しでも段差のある道路では全く走れないF1カー。
 
 このように個性を定義するならば、個性的であろうとするのはごく僅かな人だろう。プロ野球Jリーグ・プロボクシング等のスポーツ選手、芸能人、芸術家、そういった類の人たちのみが、個性を磨いている、すなわち尖った環境に己を最適化させようとしている。
 一方、このように考えると、個性とはスキルであるとも言えそうである。ある特定の環境でしか使えないスキルを持つこと、それが尖った個性という考え方だ。
 環境に合わせたスキルを磨くうちに、その環境に慣れていく。慣れた環境が好きで、慣れない環境が嫌い。慣れた環境が許容してくれる態度を身につけ、その態度を他の環境は許さない。だから、他の環境は嫌い。そんな風に出来上がるものを個性と呼ぶなら、それは慣れにより作られる態度・心理的反応だろう。
 
 それが、スキルであれ慣れであれ、個性とは「〜ができる」・「〜が好き」であることだ。その背後には、「〜ができない」・「〜が嫌い」がある。個性が素敵のコンテキストでは、「〜ができる」を想定して個性が語られる。上のシロクマさんのエントリでは「〜ができない」を想定して個性が語られている。
 そのため、集団がその構成員に求める「個性」とは、構成員の「〜ができない」・「〜が嫌い」が、その集団の許容範囲であることが前提となる。逆に、ある人が「個性」を求めるとき、自身が所属している・所属したい組織の許容範囲内で、「〜ができない」・「〜が嫌い」を抑える必要がある。個性が尖れば尖るほど、所属できる集団の数は減る。
 
 個性であっても極端に尖らせれば生きづらく、多少鈍いくらいの方が生き易い。