断筆あるいは筆を置く、作家にとっての終わりを意味する言葉だ。パソコンや音声入力のある現代においてこれは古い言い回しに思える。本当の作家の終わりは、筆を置くことではなく考えなくなることだ。
有川浩の「ストーリ・セラー」は、読書家の夫と作家の妻を巡る話だ。二人は小説をキッカケに親しくなり、やがて結婚し幸せに暮らす。しかし、片方が病により死ぬ。これをあらすじとする2編の短編からなる。ただし、一つは妻が死に、もう一つでは夫が死ぬ。
有川浩の「ヒア・カムズ・サン」は、あらすじの同じ小説を二人の作家が別々に書き、それらを一冊にまとめた本だ。この「ストーリー・セラー」はあらすじの等しい二つの小説を両方とも有川浩が書いている。
作中作ともいうべき入れ子構造が2編目(Side B)の特徴だ。
2編目の出だしはこうだ。
「次はどうしよう・・・・」
「前は女性作家が死ぬ話だっただろ?今度は女性作家の夫が死ぬ話にしていたら?」
「次はどうしよう・・・・」とつぶやいたのは、2編目の女性作家だろうか?それとも有川浩自身だろうか?
また、「次」とは1編目の次のことだろうか?だとすると2編目の女性作家は、1編目を書いたということだろうか?
そして2編目の終わりはこうだ。
「旦那さんが今年事故に遭われましたよね」
「はい」
担当はしばらく黙りこみ、やがて足で何かを探るような口調で尋ねた。
「このお話はどこまで本当なのですか?」
2編目で女性作家の夫が死ぬ。そのさきがけは旦那の事故だった。夫を亡くした女性作家は小説の主人公なのか?有川浩自身なのか?
私が好きなのは一遍目(Side A)。
Side A Side Bとも小説家が主人公であるが、Side Aの方が小説家ならではのストーリをしている。
断筆あるいは筆を置く、小説家としての終わりを意味する言葉だ。しかし書かなくても話を作ることはできよう。小説家の終わりを突き詰めれば、考えないことが終わりだ。
Side Aでは、女性作家は考えると寿命が縮む病に侵される。こんな病を持ち出すところは有川浩らしい。しかしこの設定こそが小説家の本質を抉り出すのに最適である。死ぬとは分かっていても小説を書き始める妻、それを止められない夫の姿が描かれる。
妻の性格は、男前で神経質。男前であるところに夫は惚れた。神経質であるため病気になった。男前の性格は妻の実家の家族のせいであり、神経質なのは大学時代の小説サークル仲間のせいである。その二つの原因が妻を病へと導く。
このようにシンプルな構造の上でストーリが紡がれている。よくできた話だ。
私の好きなシーンを二つ紹介する。一つ目は、病に侵された妻が死を覚悟し再び小説を書くことを決意する部分。
「作家をやめるかどうかじゃなかった。・・・・あたしが、書くのを辞められるかどうかだった。」
そうだよ。その通りだ。
「それであたしが一番読んで欲しいのは、いつでも必ずあなたなの」
それは彼にとってとても誇らしく、同時に痛い。
「作家を辞めたって、一番読ませたい人と暮らしてるのに、書くことを辞めるなんてできない」
分かってたよ。
そう答えると、彼女は彼にすがり付いて号泣した。
それは、彼女が穏やかにいつ降りてくるかわからない死を受け入れた瞬間だった。
「言っただろ?最後までそばにいるから」
同じ書くなら仕事は辞めない。彼女はそう宣言した。
彼女が彼にだけ書くのではなく仕事として書いたのは、彼女の死後も印税として彼の助けになることを考えてのことだと、私は思っている。彼女は男前な性格なのだから。
好きなシーンのもう一つは、彼女が自分の小説を目の前で彼に読ませたときのもの。
振り返るとうつむいた彼女が正座していて、控えめに主張した。
「・・・・できれば、一本ずつ感想聞きたい」
「ああ、そうか。ごめん」
彼女は昔笑いものにされてから、目の前で自分の小説を合意で読まれるのはこれが初めてなのだ。
「面白から止まらなくなってた」
読んだものを一本ずつ、彼は自分の乏しい表現力で懸命に伝えた。
彼が読み、少し離れたところで彼女がそわそわして待つ。彼が一本読み終わると、彼女はおっかなびっくり近づいてきて、隣に正座する。
そうして読んでは感想を述べるの繰り返しでその日は暮れた。
作家の心情と女の子の心情が混ざり合った様子が良く描かれている。上手だ。
まとめ
「ストーリー・セラー」はあらすじの同じ小説が2編収められている。
私は1編目(Side A)が好きだ。主人公が作家ならではのストーリ構成をしている。
2編目(Side B)は作中作ともいうべき入れ子構造をしている。セリフを言ったのは主人公の女性作家なのか?それとも有川浩自身なのか?迷わすフレーズがちりばめられている。