本書の著者は、ノーベル賞を確実取ると思われていた物理学者が最後の11か月のブログから抜粋したもの。ブログだけあって、飾らない生々しい文章です。
この本を読むきっかけは、仏教学者の佐々木閑さんの本を読んだことだった。面白いことを言う学者だと思った。
そこで佐々木閑さんについて、ネットを検索すると以下の文章をみつけ、戸塚洋二を知った。
世界一の物理学者ですよ。その方が自分の死を見つめて何をしているかというと、自分の心を何とか制御して、自分の心を何とか抑えて、そしてその死の恐怖から自分の心を守るために自分を変えよう変えようとなさっている様子が見えるのです。もうそれは壮絶なやり方です。例えば毎日花を見るんだ、木を見るんだと。私が死んでも木は生きてるんだということを毎日思い続けるのだと。あるいは本を読むときにゆっくり読むんだと。ゆっくり読むと、その時間が私にとって大切な時間になる。早く読んでしまうと、その人生の大切な時間が早く終わってしまうから、本はゆっくり読むんだというように、目の前の一つ一つの細かいことから、ずっと自分の一日を構築していかれるのです。
(中略)
私はこの戸塚先生の姿を見て、これは現代の僧侶であるというふうに思いました。現代の修行者であると思いました。決して仏教の衣を着て、鉢を持っているわけではないけれども、普段の日常の生活の中で仏教的に生きるというのはこういうことであると。
( 佐々木閑講演 )
以降、本書の中で心に刺さった部分を抜粋していきます。
さてさて、今日は正岡子規の言葉を紹介しようと思い、ブログを書きました。
(中略)
とても有名な言葉のようですが、私は知りませんでした。彼の『病牀六尺』からの一節です。
「悟りといふ事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思つていたのは間違ひで、悟りといふ事はいかなる場合にも平気で生きて居る事であつた。」
さらなるコメントは必要ないと思います。
(人生(2008年5月27日)より)
いつでも死ねることを悟りだと思う人は多い、私自身もそう思っていた。死を前にして、ジタバタするのはいつでも死ねると思えていないからだと。そうでない。死というゴールを見据えて生きるのではなく、今の瞬間を平気で生きることが悟りだと言う事なのだろう。新たな切り口を与える名言だ。
よく人はしたり顔に、「残り少ない人生、一日一日を充実して過ごすように」と、すぐできるようなことを言います。私のような平凡な人間にこのアドバイスを実行することは不可能です。「恐れ」の考えを避けるため、できる限りスムーズに時間が過ぎるよう普通の生活を送る努力をするくらいでしょうか。
「努力」とつい書いてしまいました。ここにある私の「努力」は、見る、読む、聞く、書くに今までよりももう少し注意を注ぐ、見るときはちょっと凝視する、読むときは少し遅く読む、聞く時はもう少し注意を向ける、書く時は良い文章になるように、という意味です。これで案外時間がつぶれ「恐れ」を排除することができます。この習慣ができると、時間を過ごすことにかなり充実感を憶えることができます。
(人生(2008年5月3日)より)
この部分に、私は激しく同意します。
私自身、癌になった経験があります。当時、このように記録しています。なるべく丁寧にいつもやっていることを行おうと考えていました。
自分でも意外なことに、泣いたり喚いたりすることはありませんでした。ただ、精神的につらかった。普通に働きに行って普通に帰ってくる毎日を過ごしました。残された時間を何か有意義に過ごそうと考えましたが、何か特別なことをするアイデアもなく、淡々と普段やっていることをただ丁寧に行って毎日を過ごしていました。
(癌になるということ - kotaの雑記帳 より)
われわれは日常の生活を送る際、自分の人生に限りがある、などという事を考えることはめったにありません。稀にですが、布団の中に入って眠りに就く前、突如
▼自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく
▼自分が存在したことは、この時間とともに進む世界で何の痕跡も残さずに消えていく
▼自分が消滅した後の世界を垣間見ることは絶対にできない、
ということに気づき、慄然とすることがあります。
お前の命は、誤差は大きいが平均値をとると後1.5年くらいか、といわれたとき、最初はそんなもんかとあまり実感が湧きません。しかし、布団の中に入って眠りに就く前、突如その恐ろしさが身にしみてきて、思わず起き上がることがあります。右に上げたことが大きな理由です。
(中略)
残りの短い人生をいかに充実して生きるか考えよ、とアドバイスを受けることがあります。このような難しいことは考えても意味のないことだ、という諦めの境地に達しました。私のような凡人は、人生が終わるという恐ろしさを考えないように、気を紛らわして時間を送っていくことしかできません。
(中略)
結局、充実した人生を送るための糧はまだ見つかっていません。
(人生(2008年2月10日)より)
死が怖い理由を3つにまとめる態度は、さすが物理学者という気がする。もっと漠然と怖いものなのに。そして「充実した人生」などと言うものは、終わりが見えたからと言って急に送れるものではない、という点は心に留めておくべきだろう。
(たくさん本を買ってしまったことに対して)
生きられる時間が限られているのに無謀だ、と思わないでください。本などに没頭していると、限られた有限の時間を無限のように感じるのです。
(人生(2007年10月6日))
何かに没頭していると時間を無限のように感じる、その感覚は当事者にしか分からないでしょうね。常に「恐れ」を抱きながら時間を過ごしていたのでしょう。
(ブログの読者から恐れなく前向きに時間を過ごすコツはと問われた際の回答)
私ももちろん「今後の事も恐れるばかり」の時期があり、今も無論あります。この「恐れ」に自分なりの対処をすることに必死になって努力しています。
(中略)
弱い人間ですから、やることは簡単です(難しいですが)。
- 「恐れ」の考えを徹底的に裂ける。ちょっとでも恐れが浮かんだら他の考えに強制的に変える。
- 「自己の死」の考えが浮かんだら他の考えに強制的に変える。死は自分だけに来るのではない。全ての人間にくる。年齢にもよるが、死の訪れは、高々10~20年の差だ。その間の世界がどうしても生きて見なければならない価値があるとは思わない。
- 自分が「がん」になった理由は全て自分にある(私の場合は)。自分以外を決して恨まない。
- まだできなくて困っていることが一つ。妻につい愚痴を言ってしまい、彼女を精神的に追い詰めてしまう。これを克服しなければ。
以上です。あとは、各項目について具体的に何をするか、です。実は私にとってこれらの具体的行動は善幸の一種です(ちょっと非科学的匂いがしますが)。
人によってやるべきことは全く違うと思います。後日から細々と書きたいのは、私の個人的アクションです。ご参考になるかどうか。
(人生(2008年4月29日)より)
「恐れ」に対処する戸塚さんなりの方法が記されています。ここでは概要部分を引用します。個々の具体的な方法は、人それぞれでしょう。私は、3に立派さを感じます。他責になる気持ちを 抑えています。
さて、引用しだすとキリがないのでこの辺で終えます。本書には、当人のブログだからこそ書ける本音があります。