kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



本質的な目的

本質を見つめることが大切だと良く言われる。ところが、「本質」って何か良く分からない時が
ある。
例えば読売社説(2010年3月5日付)を見ると、"高校無償化 格差解消の本質を見失うな"とい
うタイトルであり、

 高校の授業料無償化法案の本格審議が、5日から衆院文部科学委員会で始まる。限られた財
源で教育格差をどう解消していくか。それが本質ということを見失ってはならない。

で始まり、

 北朝鮮による核開発やミサイル発射、拉致問題への国民の反発はあるにせよ、今回の問題で
朝鮮学校を他の外国人学校とことさら区別するのは、無理があろう。

 法案では、生徒に授業料分を支給する専修、各種学校は、「高校に類する課程を置くもの」に
限られている。その判断基準は、法案成立後、国会審議を踏まえて文科省令で定める。きちん
と説明のつく内容にすべきだ。

で終わる。http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20100304-OYT1T01277.htm
詳細な内容は本文を読んで頂きたいが、大まかな内容は、高校の無償化の対象に外国人学校
含めるべきだ、である。この主張と始まりの文でいう本質にどんな関係があるんだろうか?

本質とは、目的に対して重要な事柄を示す言葉であると私は思う。そういう意味では、目的が
合意されていない事柄に関しては、各自の目的の数だけ「本質」が存在する。この本質が複数
存在するという事実が、「本質」という言葉を分かりづらくさせていると思う。

一方、本質という言葉を使うと賢そうに思えることも、「本質」という言葉が多用される原因で
あろう。「本質的目的」などいう言い回しもよくみかけるが、私はこれに違和感を感じる。「大
目的の達成に重要な小目的」といった意味に聞こえる。しかしながら、大目的を合意してから
著者の主張が展開されることはほとんどなく、大目的は当然といった調子で軽く述べられるに
留まる場合が多い*1

*1:本質的目的の派生物に「○○の本質と目的」といった使われ方がある。