今日は七夕。短冊に書くお願いは何にしようか?
大人になるにつれ、願いがショボくなっていないだろうか?「自分の子供が立派に育つのが私の夢です」のように、自分の願いを他人に背負わせていないだろうか?
小さい頃の願いは、何かすごい者になることだった。プロ野球の選手になるとか、歌手になるといったように。具体的で、実現性の殆どないものだ。その頃は実現性なんか全く気にしていなかった。なりたいかなりたくないか、憧れているか憧れていないか、これが願いの根っこにあった。コミックワンピースの主人公ルフィが「海賊王にオレはなる」と言っているのと同じ純粋さがあった。
大人になるにつれて自分の限界が見えてくる。無理なことが増えていく。そうして、自分の願いがショボくなっていく。幸せな生活がしたいとか、みんなの役に立ちたいとか、具体性のない当たり前で出来そうなことに縮退していく。
願いがショボくなると、3つのことが起こる。
一つ目は、他人の願いを「現実を見ろ」「無理だ」「無謀だ」「リスクがある」と否定するようになる。自分のショボさのレベルで他人を測るためだ。
二つ目は、頑張って結果を出した人に向かって「感動をもらった」「勇気をありがとう」と受け身な発言をするようになる。自発的に感動したり勇気を持ったりできないため、他人にもらわないといけないようになっている。その根っこには、だれか私を感動させてくれ、という受け身なマインドがある。
三つ目は、自分の子供や仲間に自分の願いを背負わせようとする。「〇〇ちゃん、あなたの夢はなんなの?」って聞いちゃうタイプ。あるいはビジネスや大学生にいるのは、ハッカソンやピッチ大会を開催して、人と人をつなげる共創の場を作りたい言うようにタイプ。主人公から降りた脇役マインドが根底にある。
学生でお金がないとき、あの服を買えば、あのスマホを買えば、あれを手に入れれば、自分は周りに注目される何かになれる気がした。就職して金を稼いで買えるものが増え、欲しかったものを手に入れる度、服やスマホや何かものを手に入れても自分は何も変わらないことを知る。そうして願いが叶わないことを少しずつ思い知らされる。
大人になるとは自分の限界を思い知ることだ。
だからこそ、大人になって大きな願いを言えるのはカッコいいことだと思っている。