kotaの雑記帳

日々気になったことの忘備録として記していきます。



「路上スナップのススメ」、中途半端なコンセプトは捨てて躊躇なく撮れ

 森山大道の写真は、強い。
 テクニックではない何かが、強い写真を撮ることを可能にしている。「路上スナップのススメ」に、その一端を垣間見ることができる。この本はテクニック本ではない、心構えの本だ。

森山大道 路上スナップのススメ (光文社新書)

森山大道 路上スナップのススメ (光文社新書)

量のない質はあり得ない

 歩け、とにかく歩け。それから、中途半端なコンセプトなどいったん捨てて、なんでもかんでも、そのとき気になったっモノを躊躇なくすべて撮れ

(「序章 スナップとはなにか」より)

とにかく撮影するときはコンセプトだとか、テーマだとかは頭から外せ、と僕は言ってきた。
(中略)
何か、その時の社会状況みたいなことからテーマやコンセプトを、らしく決め込んで撮影したところで、しょうがないと思う。そんなことより、とにかく全身で感じたものを、なるべく選別することなく撮っていく。

(「砂町」より)

商店街を撮るときは必ず往復すること。僕は必ずそうしている。それは、域と帰りでは、だいたい光線が逆になるから。見えてくるものが違うんだよ。同じ道でも。逆光で見てさほど面白く見えなかったものでも、巡行で見れば面白かったり、、。

(「砂町」より)

コンセプトやテーマと言った予め作った決め事に従って被写体を選ぶのではなく、自分の感性にひっかかるものをとにかく探せ。感性に引っかかったものはすべて撮れ。そんなメッセージが感じられる。

それは、漠然と物を撮るのではなく、「こだわりを持って撮れ」ってことだけれど。
(中略)
最近は、街中でカメラを持って写真を撮っている、学生らしき若者たちを多く見かける。まあ悪くはないんだけど、そうやってただ漠然と撮影していても、きっと本人は分かっていないと思う。一体、自分は何をやっているんだということや、何を撮りたいんだということが。

(「砂町」より)

ただ数を撮れば良いのではない。よく見てなんでも写す。よく見て写すうちに自分が何を撮りたいのか分かってくる。よく見て全て写す。

謙虚さ、あるいは撮り手の無力さ

自分の欲望が発する必然の投網を打って、偶然という獲物をからめとること。

(「砂町」より)
スナップとは何か? 森山大道の答えがこれである。撮り手には必然のタイミングでシャッターを押す。しかし写真には偶然の産物が写る。

 シャッターを押しちゃった瞬間にフィルムに焼き付いたものは、その瞬間からどんどん本人の意思を離れていく。もちろんシャッターを押すモメントは、その人間の、僕の場合は当然僕の、一瞬のうちに脳裏をよぎる記憶だったり、美学だったり、思考だったり、欲望だったりが反映されてるんだけれど、でも、撮られた方はそんなことは知ったこっちゃないわけで。その知ったこっちゃないものが残るんだよ。

(「佃島」より)


撮り手の意図は写真に残らない、残しようがない。撮り手の意図によってシャッターは押されるが、それは写真に残らない。

スナップとは何か?

「ほとんどの人は日常しか撮ってないでしょう。つまり、基本的に異界に入り込んでいない。でも、街はいたるところが異界だからさ。街をスナップするってことは、その異界を撮るっていうことなんだよ。」

(「序章 スナップとはなにか」より)

人は常識というフィルタで選別された日常を見ている。注意深くものを見ることで「異界」を見つけることができる。光の加減、風の向きの変化、そんな一瞬の中に「異界」は存在する。

まとめ

 強い写真を撮る。そこに撮り手の意思はなく、強い被写体があるだけなのだろう。よく物を見て、「異界」を見つける。それが撮れるかどうかは、偶然次第。スナップとはそういうものと森山大道は言っている気がする。
 森山大道が使用するカメラはRICOHのGRであった。単焦点のコンパクトカメラである。シンプルな道具を使う点にも、自分の撮りたい欲求にのみにこだわる姿勢を見る。

何かへの旅 1971‐1974

何かへの旅 1971‐1974